上野 国峰城



ファイルNo2257

姫君の怨念伝説の残る城

                      主郭背後の堀切   

@ くにみねじょう 
  別名 

A住所:甘楽郡甘楽町国峰
B目標地点:国峰山
C形式:山城  D比高:250m
          御殿平から120m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・堀切・土塁・説明板
G時代/人物:戦国期/小幡氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  御殿平から15分
J撮影・訪問時期:2009年08月

  

道案内 

上信越自動車道富岡インタで下り、インタ前の信号を右折、400m先の信号を右折し県道46号線に入ります。3km先の善慶寺の信号を右折し県道193号線に入ります。700m先で善慶寺原の信号で左折し(国峰城の案内板があります)、道なりに館があった地区を進み、2km先、長慶寺が右手にあるあたり、標識のあるところで左折し山道を登ります。中腹の御殿平に至ります。山道は細く、悪路ですので注意ください。

訪城記録

御殿平は名前の通り御殿が建っていたんでしょうか、広い公園になっています。この下にも三段ほど大きな郭が連なっているようです。ここから山頂までつづら折の道を登りますが、御殿平から坂道を登って行くと切り通しのような箇所がありますが、往時からのものでしょうか。山道を登っているとまずは竪堀を下から見上げる箇所があります。山頂付近から一直線に下っていて、なかなかしっかりと残っています。さらに登るともう一本竪堀が横から観察できる箇所があります。この竪堀も深さ、長さともはっきりと残っています。尾根まで到達し、少し進むと主郭前に堀切があります。主郭は狭く、中世の山城という感じです。背後の堀切も明瞭でした。また、平地には外堀跡の蓮池が残り、この城は平地から山頂まで相当に大きな規模の城だったようです。この城には城主の側室が無実で殺された怨念の伝説があるようです。蛇攻めらしい・・・コワッ。

主郭の説明板
歴史

仁治年間(1240〜43年)に武蔵児玉党の一員であった小幡氏が築城したとされます。小幡氏は関東管領山内上杉氏の重臣でしたが、小幡重定(憲重)の時、上杉憲政が北条氏に破れ越後に亡命後は武田信玄に従いました。長野業政は小幡重定を追い、一族の小幡景定を城主としました。永禄4年(1561年)に信玄は国峰城を奪い、信実(のち信真・信貞・信定)と改名した重定を復帰させます。国峰城は武田氏の西上野の要となり、永禄九年(1566年)の箕輪城を落城させます。天正十年(1582年)に武田氏が滅亡し、信実は織田の滝川一益配下となりましたが、本能寺の変で信長が横死し滝川氏が上野から撤退すると北条氏に従いました。天正十八年(1590年)、豊臣氏の小田原城攻めに際し信定は小田原に籠城、国峰城は子の信秀が守備しましたが、前田利家に属した藤田信吉に落とされ廃城となりました。信定は真田昌幸を頼り、信州で客死し、小幡氏は信定の養子の直之が徳川氏の旗本として存続しました。


竪堀(横から)                現地案内板より

  御殿平                   堀切(今は山道)
竪堀(下から見上げる)               主郭手前堀切  
  城址遠望                   外堀跡(現:蓮池)

  

             近くの城・関連の城: