上野 小沢城



ファイルNo2243

土塁と堀がよく残る

      土塁と堀   

@ おざわじょう 
  別名 

A住所:沼田市町田
B目標地点:法城院・薄根中学校・薄根小学校
C形式:丘城  D比高:20m 
E現況:寺・田畑・宅地

F遺構等:郭・堀・土塁・碑・説明板
G時代/人物:室町期/沼田氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分

J撮影・訪問時期:2009年08月

  

道案内 

関越自動車道の沼田インタを下り、国道120号線を沼田市内に進みます。7km先、戸鹿野の信号で右折し国道291号線に入ります。2.8km先、硯田町の信号で右折します。3.5km先、善桂寺町の信号を右折します。800m先右手が寺です。

訪城備忘録

詳細な地図を持たずに城跡を探してウロウロしてしまったです。この寺は沼田平八郎景義の墓が有り、寺の入り口にはその標識がありますが、城跡の標識はありません。寺への坂道を登ると広大な台地にポツンと寺があり、周囲は畑になっていて、土塁が巡っています。寺の横に城址碑と説明板がありました。郭内の土塁沿いは墓地になっていて、長く続いている土塁沿いにお墓がならんでいます。土塁は3mほどあり、途中に折れも入っていて、なかなかりっぱなものです。外側の堀跡は遊歩道に整備されていました。

説明板と碑
歴史

応永十二年(1405年)に沼田景朝が築き、荘田城から移りました。永正十六年(1519年)に幕岩城(沼田市下木田)に移るまで沼田氏四代の居城でした。

沼田平八郎景義
沼田顕泰<万鬼斎>の側室の子で、永禄三年(1560年)に上杉謙信に攻められ、顕泰が降伏し、沼田城主は顕泰の長男の朝憲となり、平八郎は顕泰とともに天神城に移りました。永禄十二年(1569年)に顕泰は朝憲を天神城で謀殺したため、沼田兵に天神城を攻められ、顕泰は会津に逃れ、景義は女淵城に拠りました。天正六年(1578年)に上杉謙信が死去し、天正七年(1579年)には北条氏が沼田城を支配し、天正八年(1580年)には真田昌幸が調略にて沼田城を落としました。天正九年(1581年)に景義は挙兵し沼田城奪還を志しますが、昌幸の謀計で沼田氏の一族の金子美濃守を使い景義を殺害したとされます。この時点で沼田氏は完全に滅亡しました。沼田城には景義の首実験をした平八石というものがあります。

     寺入り口の土塁      土塁と堀を土塁上から。白い建物は中学校
堀        法城院
  

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