上野 / 沼田城



ファイルNo2242

武田・北条・上杉の攻防の城。真田氏の拠点

                            西櫓台石垣

@ ぬまたじょう 
  別名 蔵内城・倉内城 

A住所:沼田市西倉内町
B目標地点:沼田公園
C形式:丘城  D比高:40m 
E現況:公園・公共施設・宅地

F遺構等:郭・土塁・堀・石垣・模擬櫓・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/沼田氏・真田氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  10分

J撮影・訪問時期:2009年08月

  

道案内 

関越自動車道の沼田インタを下り、沼田ICの信号を右折し国道120号線に進むます。約4.8km先、下之町の信号を右折し県道274号線に入ります。200m先、西倉内町の信号を直進します。約600m先左手が城跡で駐車場があります。
 
訪城記録

城跡は沼田公園となっており、一度、波城され、堀なども埋め立てられたという事もあり、遺構としては多くを残していません。西櫓台の石垣、三の丸の土塁、本丸東側の水堀などが残ります。

説明板
歴史

天文元年(1532年)、沼田顕泰(沼田氏12代、万鬼斎)が築きました。当初は山内上杉氏に属していましたが、北条氏に属するようになります。永禄三年(1560年)、長尾景虎(上杉謙信)に攻められ、上杉氏勢力下に入ります。天正六年[(1578年)、謙信没後、北条氏の支配下に入り、猪俣邦憲らが城代となりましたが、天正八年(1580年)、武田氏が侵攻し、沼田景義(顕泰の子)が殺害され沼田氏は滅びました。城には真田昌幸が入ります。天正一七年(1589年)、豊臣秀吉の裁定で、沼田は北条氏の支配となり、猪俣邦憲が再び入るも、天正一八年(1590年)に名胡桃城を攻めたため、小田原の役のきっかけとなります。北条氏滅亡後は再び真田氏の支配となり、昌幸の長男の信幸(信之)が城主となって、二万七千石を領しました。慶長2年(1597年)、城は大改修され、五層の天守が築かれました。慶長五年(1600年)、上田城にある父の真田昌幸と弟の信繁(幸村)は西軍に付きますが、沼田の信之は東軍に付きます。この時、小山から上田に戻る昌幸が沼田に立ち寄り孫の顔が見たいと申入れしたが、信之の正室の小松姫(本多忠勝の娘)は「たとえ舅でも敵」と城内に入れなかったという逸話があります。元和元年(1615年)、信之は本拠を上田城に移し、沼田城は嫡男の信吉が城主となりました。元和八年(1622年)、信之は松代に転封となりましたが、沼田はそのまま松代藩の分領となっていました。万治元年(1656年)に信之が死去し、沼田は松代から独立し、信吉の子の信利が初代藩主となりますが、天和元年(1681年)に沼田真田氏は改易となり、城は翌年に徹底的に破城され、沼田は天領となりました。 元禄一六年(1703年)、本多正永が四万石で入封しました。城は一部再興されましたが、ほとんどが破城したままであったようです。 以後、黒田氏二代、土岐氏一二代続き、明治維新を迎えました。 <現地説明板 参考>


本丸東の水堀                              ー 

鐘櫓は復元だが、鐘は真田信之が作らせた城鐘                西櫓台石垣・石段      
  
捨郭                            −
ジオラマ                          三の丸土塁
捨郭からの眺望

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