上野 小川城



ファイルNo2240

一瞬芸の主郭堀切が見事

                         主郭堀切   

@ おがわじょう 
  別名 

A住所:利根郡みなかみ町橋下
    旧:利根郡月夜野町

B目標地点:JR上毛高原駅
C形式:丘城  D比高:60m 
E現況:山林・宅地・田畑

F遺構等:郭・堀・堀切・土塁・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/沼田氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  JR上毛高原駅から10分
J撮影・訪問時期:2009年08月

  

道案内 

関越自動車道の月夜野インタを下り、国道17号線を水上、三国峠方面に進みます。1kmほどで月夜野大橋で利根川を渡り、坂道を登りきった右手が名胡桃城です。ここからさらに2.3km先の上津大原の信号で右折し、国道291号線に入ります。2.8km先右手 <JR上毛高原駅手前>が城址です。
 
訪城記録

駅近くの国道沿いに大きな小川城の案内標識が有り、主郭には大きな堀切を越えてすぐです。この堀切は明瞭で見事です。主郭には城址碑と詳しい小川城の由来記があります。遺構としては、主郭の堀切、土塁及び櫓台、及び、道路を挟んで反対側の集落内にある二の郭の堀跡程度ですが、立ち寄って損の無い城跡です。

土塁と城址碑
歴史

明応元年(1492年)、沼田城主の沼田景久が築城し、次男の景秋を700貫(約3500石)で入れ、小川氏と名乗ったとされます。二代目三郎景祐が主家に謀反し敗死後、弟の秀泰が三代目を継ぎました。大永二年(1522年)に秀泰が亡くなり、景奥が継ぎましたが、大永四年(1524年)に北条氏に攻められ秀泰は戦死、その先に秀泰の嫡子の景季が戦死しており、北能登守が城代を勤めました。赤松捨五郎祐正が京都より来て、客分として活躍し、その後、景季の未亡人と結婚し、上杉謙信の許可の上、小川可遊斎と名乗りました。天正六年(1578年)の謙信の死去し、天正八年(1580年)に北条氏邦に攻められ落城、小川可遊斎は越後に逃れました。その後は真田氏がこの地を支配し、真田昌幸の配下として北能登守が城代として、天正二十年(1592年)頃まで在城しました。その後は、城史が不明ですが、沼田真田氏五代の真田伊賀守信澄が藩主になる前、寛永十五年(1638年)から十八年間この城の三の郭に陣屋を構えていたとされます。信澄が藩主として沼田城に入った以後、この城は廃城になったとされます。 (城跡に建っている小川城由来記より)


堀切と櫓台                   二の郭堀

  

             近くの城・関連の城: