上野 名胡桃城



ファイルNo2239

小田原北条氏滅亡のきっかけとなった城

                        二の郭から主郭を見る    

@ なぐるみじょう 
  別名 

A住所:利根郡みなかみ町下津
    旧:利根郡月夜野町
B目標地点:国道17号線月夜野大橋
C形式:河川段丘城  D比高:150m 
E現況:山林・畑

F遺構等:郭・堀・堀切・土塁・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/沼田氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  駐車場から5分
J撮影・訪問時期:2009年08月

  

道案内 

関越自動車道の月夜野インタを下り、国道17号線を水上、三国峠方面に進みます。1kmほどで月夜野大橋で利根川を渡り、坂道を登りきった右手が城址です。国道をもう少し行くと右手に駐車場があります。
 
訪城記録

橋を渡って国道の坂を右カーブで登りきると突然のように右手に名胡桃城址の大きな標識がありました。城址は居館跡である般若郭は名胡桃氏時代からのものですが、主郭を含めた防衛地区は真田氏の築城のようです。河川段丘の台地に三の郭・二の郭・主郭、ささ郭と一列に並び、連郭式の単純な縄張りですが、各郭間は堀で隔てられているのが今もはっきりと分かります。馬出しから南側は国道で破壊され、外郭も畑になっていますが、充分に往時を想像できます。

城址碑
歴史

明応年間(1482〜1501年)に沼田城主の沼田景久の子の景冬が般若郭の位置に居館を築き、名胡桃氏を名乗ったのが始まりとされます。天文二十年(1551年)に関東管領上杉憲政は北条氏に破れ、越後に逃れ、長尾景虎に救援を求めます。天文二十一年(1552年)、景虎は上野に進出して名胡桃城を占拠したとされます。永禄三年(1560年)には上杉謙信(長尾景虎)は関東を席巻し、天正六年(1578年)の謙信の死去まで名胡桃城は上杉方の城でした。天正七年(1579年)には北条氏が沼田城まで支配したため、武田勝頼方であった真田昌幸がこの城を大規模に改修したとされます。天正八年(1580年)には昌幸は調略にて沼田城を落としました。この後も北条氏と真田氏は沼田方面の領有で争いましたが、天正十七年(1589年)に天下人(関白)となった豊臣秀吉の裁定で、利根川東の沼田城は北条氏、利根川西の名胡桃城は真田氏が領有とされました。しかし、沼田城代の猪俣邦憲は不服とし、名胡桃城を攻撃、名胡桃城代の鈴木主水重則は自刀し落城しました。これを口実に天正十八年(1590年)には秀吉が小田原城攻めを行い、北条氏は滅亡し、これ以後、名胡桃城も廃城になったとされます。


  二の郭の堀               主郭背後ささ郭との堀切

馬出郭の堀                 土橋と三の郭
二の郭西側堀               主郭との土橋

  
現地案内板より                 ささ郭からの眺望

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