上野 箕輪城



ファイルNo2238

長野氏の意地の城、井伊氏が大改修した城

                         本丸堀   

@ みのわじょう 
  別名 

A住所:高崎市箕輪町西明屋
    旧:群馬郡箕輪町

B目標地点:
C形式:丘城  D比高:30m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・堀切・土塁・石垣・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/長野氏
H満足度: 凸凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  搦め手駐車場から15分 二の丸駐車場から5分
J撮影・訪問時期:2009年08月

  

道案内 ←二の郭駐車場

関越自動車道の前橋インタを下り、中尾町の信号から高速道側道を北上します。県道10号線を左折(西進)し、7.5km先の浜川町の信号で右折し県道28号線に入ります。7km先で左折し、県道28号線旧道で右折すると案内があります。
 
訪城備忘録

どこまでに長野氏、あるいは、武田・北条の遺構が残っているのかよく分かりませんが、丸馬出があったり、深い空堀が巡っていたり、西側の郭群には良好な石垣が残っていたりと、城域の広さ、遺構の巨大さと残存度、各パーツがどれも大きい、群馬では最高の城に感じます。郭を取り囲む深い空堀は圧巻です。
城跡は小高い丘全体にあります。車の場合は標識に従うと搦め手駐車場に着きます。そこからさらに車で入ると二の丸駐車場まで上がれます。西側麓には虎韜門側に駐車場があります。ここからだと三の丸の石垣が近いです。徒歩は大手口から尾根筋を登るといいでしょう 私は搦め手から北から南へ歩きました。北側に丸馬出し遺構、新郭、稲荷郭があります。どれも大きな造作です。空堀を越え、少し登ると御前郭です。長野氏滅亡の際、長野業盛が自刀したところといわれます。堀をはさんで主郭です。双方ともやはり広大です。主郭虎口の堀は御前郭と主郭の西側を南北に走る空堀から食い込むように主郭南側に伸びてきています。これを西側空堀の底から見上げると壁のよな土橋が壮観です。二の郭の先には大堀切が東西にまたがっています。西側には三の郭があり、ここは場内では虎口、切岸に石垣が構築してあり、主郭・二の郭とは趣が違います。三の郭の北側には蔵屋敷があり、蔵屋敷と御前郭の間の橋の痕跡はおもしろい。二の郭の南には木俣など他にも多くの郭がありました。 2017年、門が復元されたとの事です。

城址碑
歴史

1500年頃(文明〜明応〜永正年間)に長野業尚が築城したとされます。その後、憲業、業政(業正)、業盛と続きますが、業政(なりまさ)は武勇に優れ、義理堅い武将といわれ、山内上杉氏に忠節を尽くし、天文二十年(1551年)に上杉憲政が北条氏康に破れ、越後に逃れても北条氏には従わず、また、武田信玄も業政存命中は箕輪城を落とせなかったものでした。永禄四年(1561年)に業政が病死後は嫡男の業盛が家督を継ぎましたが、永禄九年(1566年)に武田信玄に攻められて、城は落城し、業盛は自刀し、長野氏は滅亡しました。城は、武田氏時代では内藤昌秀が入り、天正十年(1582年)に武田氏が滅ぶと、織田信長の家臣の滝川一益が入りましたが、1ケ月ほどで本能寺の変があり、一益は関東を撤退、北条氏時代では北条氏邦が城主となりました。北条氏も天正十八年(1590年)に滅び、関東に入部した徳川家康によって井伊直政が12万石で入り、城を大改修しました。慶長三年(1598年)高崎城を築城し移ったため、箕輪城は廃城となりました。

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大堀切                  三の丸石垣
大堀切土橋と郭馬出         丸馬出   
  
現地案内板より              絡手側より城跡遠景

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