道案内 ←城址碑・説明板のある場所 |
館山自動車道の蘇我インタを下り、県道66号線生実町五差路で右折します。1.5km先の信号(角が廣照寺)の手前100mの南生実町のバス停付近で左折します。100m先で右クランクでさらに100m先で左折、100m先が八剣神社鳥居です。100m先神社を右手に見ながら切り通し状の道を進みます。台地に登った最初の路地を左折し、100m先を左折、道なりに200mほど進むと墓地があり、その中心に城址碑と説明板があります。徒歩の場合は京成線学園前駅から大百池公園の横を通り、台地のすそを文化財センター方面にいったん出てから八剣神社に行くことになります。
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訪城備忘録 |
私はこの日は京成線学園前から歩いて生実城(北小弓城)を見て、さらに路地を歩いて、大覚寺山古墳、千葉市埋蔵文化財調査センターを経由し八剣神社まで行きました。八剣神社の西側には切り通りの道があり、まるで堀切ですが、台地に登ると一面田畑で防御性がありません。これはこの台地の各所で見られる坂道のひとつでしょうか? 城址碑と説明板は、八剣神社から直線距離で200m西の墓地の中にあります。説明板には墓地の南西端、台地の北西(埋蔵文化財センターの裏手に土塁が残るとありましたが、墓地の端には確かに低い土塁状の盛り上げがありますが、土塁かは??です。センターの裏手の台地端には確かにくの字状の土塁らしき感じの盛り上がりがありました。千葉大農場になってます。この農場とセンターの間で入れない部分に空堀上の長い谷状の箇所がありますが、これは遺構ではない? さらに集落の端にも土塁状の箇所が何箇所かありましたが、遺構ではないんでしょうな。
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説明板
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築城時期は定かではありません。平安中期頃、亥鼻城が築城された頃にこの城も築かれたようです。戦国期に入り、千葉氏の重臣の原氏が在城したようです。永正十五年(1519年)、真里谷城の武田怒鑑(信保)は古河公方の足利高基の弟の足利義明を奉じて小弓城を攻め、義明はここに移り、小弓公方・小弓御所と呼ばれました。天文七年(1538年)の第一次国府台合戦で義明が討死したため、原氏(原胤清)が城を奪還するも、この城を廃し、北西に生実城を築城し移りました。
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