道案内 |
東関東自動車道の佐原香取インタで下り、県道55号線に入ります。7.5km先の信号で左折し県道44号線に入ります。5.1km先の小見川大橋口の信号で右折し国道356号線に入ります。8km先の東庄交番前の信号で左折し県道288号線に入ります。2.8km先で川が県道の右手から左手に変わった地点から100mで斜め右の道に登ります。1.2km道なりに走るとT字になりここに森山城・芳泰寺の標識があります。城跡はこの標識では右手方向ですが左手方向に行きます。右手方向は芳泰寺、天之宮神社になります。
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訪城備忘録 |
岡飯田集落内の「森山城址と芳泰寺」の標識に惑わされ、芳泰寺の裏手丘の上の台地方面を探し回りましたが見つからずでした。城跡はこの台地のほぼ西の端の方にあり、標識から左手に進み、岡飯田区民センター前を越えて100mほどのところを右折し登った先を左方向にいったところのようです。城跡は大半が畑になっているようですが、堀は明瞭に残っているみたいです。ただ、森山城は近くの須賀山城も取り込んだ城郭のようですので、私が芳泰寺の裏手台地から森山城方向に数百メートル歩いて見ましたがこの間にも城郭としての施設はあったのかもしれないですが、今は一面畑という感じです。
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案内板
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文治六年(1190年)に千葉常胤の子の東胤頼が須賀山城を築城、その後、建保六年(1218年)に須賀山城とは台地続きに森山城を築城して須賀山城から移ったようです。三代東胤行は承久三年(1221年)に美濃山田庄の地頭として移り、その後は海上氏が居城としました。戦国期に入り、千葉胤冨が海上氏に養子で入っていましたが、弘治三年(1557年)に千葉宗家を継ぎ本佐倉城に移りました。しかし、胤冨はこの城を境目の城として重視し大改修しました。天正年間に入ると東氏、その家臣の原氏が在城し、宗家千葉氏とともに北条氏に従いました。天正十八年(1590年)、城主の東直胤は小田原城で籠城、北条氏滅亡後に森山城は廃城になりました。
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