道案内 |
東関東自動車道の佐原香取インタで下り、県道55号線に入ります。7.5km先の信号で左折し県道44号線に入ります。5.1km先の小見川大橋口の信号で右折し国道356号線に入ります。8km先の東庄交番前の信号で左折し県道288号線に入ります。2.8km先で川が県道の右手から左手に変わった地点から100mで斜め右の道があります。この手前にもうひとつ右に細道がありそばに「須賀山城跡」の標識があります。ここを登ると200mほどでキノコの栽培場になります。ここをさらに比高20mほど登るんですが、これ以上車はやめておいたほうがいいです。この一帯が城跡です。また、県道から斜め右の道に入り1.2km道なりに走るとT字になりここに森山城・芳泰寺の標識があります。こおを右手に行くと芳泰寺で、150m先、寺の背後の台地に登るとテレビ中継所がありますが、この手前を右手に100m進むと天之宮神社がありここにも「須賀山城址」の碑があります。
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訪城備忘録 |
城跡が二箇所にある。というより途中が山林・藪・養豚場で入っていけないという感じです。まず東庄側の遺構は、県道から細道を進むと右にカーブしながら登って行きます。小型車一台通れるかという細道です。中腹にキノコ栽培場があり、ここも主郭下に位置し郭跡のようです。さらに50mほど進むとピークになり右へ登る道、左へ入る道、やや下にまっすぐ下りる道になります。左は少し登るスローブ状で虎口です。左手が櫓台のようです。円形の郭で直径は50mほどです。現在はキノコ栽培場になっていますが、周囲を土塁が巡ります。まっすぐ降りると段郭状に二段ほど平坦地があります。けっこう広い空間でしっかりした平坦地です。その先は背丈以上の藪が続き入っていけません。最後に右に登るとすぐ平坦地でここも郭でしょう。この右手に草木が多いですが横堀があって土橋があり、その先に説明板が見えます。説明板のところから土塁が延びています。少し進むと周囲は背丈以上の藪でとても歩き回れませんが相当に広い空間です。ここが初期の主郭のようです。天之宮神社付近は鳥居前に城址碑があって簡単な説明板があり、社殿の背後は土塁が巡ってますが、遺構かは?です。神社の奥は養豚場で入れません。神社の周囲は畑で遺構のようなものは無い感じです。キノコ栽培の箇所と天之宮の箇所は直線150mほど離れています。この間に遺構があるのかもしれませんがよくわからんという感じです。
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説明板
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文治六年(1190年)に千葉常胤の子の東胤頼が須賀山城を築城、上代前掛城(桜井城/現:旭市・旧:千潟町)より移りました。その後、建保六年(1218年)に須賀山城とは台地続きに森山城を築城して須賀山城から移り、ここには一族が居城したようです。三代東胤行は承久三年(1221年)に美濃山田庄の地頭として移り、その後は海上氏が居城としました。戦国期に入り、千葉胤冨が海上氏に養子として入っていましたが、弘治三年(1557年)に千葉宗家を継ぎ本佐倉城に移りました。しかし、胤冨はこの城を境目の城として重視し森山城の外郭として森山城に取り込む形で須賀山城も改修したようです。天正年間に入ると東氏、その家臣の原氏が在城し、宗家千葉氏とともに北条氏に従いました。天正十八年(1590年)、城主の東直胤は小田原城で籠城、北条氏滅亡後、森山城とともに廃城になりました。
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