肥前/ | 名護屋城 |
ファイルNo1949 |
豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点 破城の跡が鮮明に残る
@ なごやじょう |
道案内 | |||
福岡市内から高速1号線で西に向かいます。福岡前原道路から国道202号線を経由し国道202号線のバイパスの今宿バイパス・二丈浜玉道路を通ります。国道202号線唐津バイパスに入ります。7km先で唐津大橋を越えます。1km先の瀬田原の信号で右折し国道204号線バイパスに入ります。10km先唐房入口の信号で国道204号線旧道と合流します。右手が国道204号線、左手が県道23号線で、左手の県道23号線に入ります。2.8km先の岩野の信号では右手の県道340号線を進みます。1.4km先の打上小学校入口で左手に入ります。200m先の筒江の信号で斜め左へ進み打上小学校横を通過します。2.8km先の横竹公民館前の信号で左折します。800m先の県道47号線を横切ります。1km先の伊達政宗陣跡の信号で左折し国道204号線に入ります。500m先が名護屋大橋で、700m先が名護屋城跡の信号です。300m先を右手に登ると城址の駐車場です。主要部分を大手門⇒三の丸⇒本丸⇒馬場・搦め手門⇒二の丸⇒遊撃丸⇒北の門⇒山里丸⇒山里口と廻って1時間半程度でしょうか。 |
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訪城備忘録 | |||
念願の城の訪城です。朝早くの駆け足訪問でしたが、満足です。総石垣の広大な城には圧倒されます。各郭の大きい事。秀吉の陣城として有名な石垣山城よりも石垣の石は大きく、郭も巨大です。天下人秀吉の城でありますから、攻められるという概念が無いでしょう、堀・堀切・竪堀などの防御施設は皆無です。また、至る所で石垣の四隅が削られた破城の痕跡も明瞭に見られる城でありました。名護屋城周囲には各武将の陣屋が点在していますが、今回は遠望だけで断念しました。 |
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松浦党である波多氏の家臣の名護屋氏の垣添城があったところに、朝鮮派兵を決めた豊臣秀吉が、前線基地として築城を計画し、天正十九年(1591年)に加藤清正・寺沢広高を普請奉行として築城を開始し、文禄元年(1592年)三月には完成したものです。文禄の役は文禄二年(1593年)に講和となりましたが、慶長二年(1597年)には再び朝鮮出兵されました。しかし、慶長三年(1598年)に秀吉が死去し、全軍撤退となり、名護屋城も役目を終えました。慶長七年(1602年)に寺沢広高は唐津城の築城を開始し、名護屋城から資材を転用したと伝わります。 |
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