豊後/ 角牟礼城



ファイルNo1672

山頂部と中腹部にギャップを感じる城でした

                         水の手曲輪石垣   

@ かくむれじょう 
  別名 

A住所:玖珠郡玖珠町森 
B目標地点:三島公園・末広神社 
C形式:山城  D比高:120m 
E現況:山林 

F遺構等:角・石垣・井戸・竪堀・土塁・説明板 
G時代/人物:戦国期/森氏・毛利氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  三の丸駐車場から15分

J撮影・訪問時期:2007年02月

  
(伝)搦め手門・水の手曲輪石垣

【道案内】  ←(伝)三の丸駐車場

大分自動車道の玖珠インタを下りて、右折して国道387号線に入ります。1.2Km先で国道はやや右方向になる信号で左折し、またすぐを右折します。石畳の商店街を400m進むと正面に鳥居があり直進が三島公園、左折が角埋山の標識があります。ここで左折し、道なりに1Km進むと角埋山への右折の道があります。ここから山道を1.2Kmほど登れば三の丸駐車場です。

  


【現況・訪城記録】

三の丸駐車場に着くと、そこにはやや崩れてきてはいるものの素朴な石垣が出迎えてくれます。そこから登って行くと、右手斜面に竪堀が三条確認でき、その先に(伝)搦め手門及び(伝)水の手曲輪の長大な石垣が現れます。山の中で突然という規模で神秘的にすら感じます。さらに登ると(伝)大手門に至り、その左手に(伝)二の丸があります。大手門には礎石の跡があり、門は外桝形となり門下の城道にはもうひとつ櫓跡の石垣が残ります。二の丸は広域で周囲を石垣が巡っているようですが、削平はしっかりしているように感じません。ただ、奥には建物の礎石が残ります。大手門から右手に進むと、左斜面に竪堀と竪土塁風の箇所があり、ここを登ると本丸です。本丸は二の丸以上に広い空間ですが、削平は二の丸よりさらに曖昧で、一部に櫓台跡とされている箇所に土塁はありますが、虎口も明瞭とは言えず、石垣もありません。東の尾根に舌状に平坦地が伸びていますが、ここにも明瞭な遺構を感じません。この城は中世の城郭に、織豊期の石垣の城を上載せしたという感じで、それも大手門・二の丸までの改修に留まり、本丸周囲は改修されなかったという事のようです。(伝)と記載したのは、ここの案内板にもそう書いてあった事もありますが、実際に大手門・二の丸などがその名称通りの機能をしていたのか素朴に疑問が残りました。訪城時、夕暮れに歩いていると、本丸から下りてくる若い外国人の女性ふたりに出会いました。英語が話せなくて、軽く無視したおいちゃんでしたが、ここのお城に若い女性が来るのもめずらしいやろに、国史跡とは言っても外国の方が見学されるには、マニアックすぎるかな^^;


【歴史】

久寿二年(1155年)源為朝が築城したという伝承があります。弘安年間(1276〜87年)には森三郎朝通が居城したと伝われます。この後、森氏の居城、森氏・古後氏など玖珠衆の拠点となったようです。天正十四年(1587年)には島津氏侵攻に対しこれを撃退したとあります。文禄二年(1593年)に大友義総が改易された際、森氏もこの城を退去しました。文禄三年(1594年)に毛利高政が日田に入り、この城を改修したとされ、今見る石垣などはこの頃のものと考えられます。慶長六年(1601年)に毛利高政は佐伯に転封し、来島康親が入封し、麓に陣屋を構え、角牟礼城は廃城になりました。来島氏は久留嶋氏と改称し、元和元年(1615年)に1国1城令の際、二代藩主の久留嶋通春は角牟礼城の建物・石垣の一部を破却しましたが、その後も、有事に備えて山は管理されました。

  
(伝)三の丸石垣
  
(伝)大手門
  
  

近くの城・関連の城:森陣屋・玖珠城

            

(伝)三の丸石垣
現地案内板より
(伝)搦め手門石垣
(伝)水の手曲輪
(伝)二の丸              (伝)大手門石垣
(伝)大手門石垣
主丸下竪堀・竪土塁?                  本丸    
城跡遠景
伐株山(玖珠城)遠景

伐株山には山の西側から林道が続いているようです。国道210号線の玖珠警察署の手前に伐株山への案内板があります。主郭周囲には畝状竪堀が巡っているようです。