豊前/ 佐田城



ファイルNo1659

山上に広がる技巧的縄張り

       主郭下横堀  

@ さだじょう 
  別名 青山城

A住所:宇佐市安心院町佐田〜山蔵字青山
     旧:宇佐郡安心院町

B目標地点:佐田小学校・青山 
C形式:山城  D比高:220m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・堀・堀切・土塁・石垣・碑・説明板
G時代/人物:室町期/佐田氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  登城口から40分<1350m>

J撮影・訪問時期:2007年07月

  
三の郭石垣

【道案内】    ←城跡  ←登城口

宇佐市役所付近からは国道387号線で行くか、宇佐別府道路で行きます。宇佐別府道路の安心院インタを下り、県道42号線を右手の東に向かいますインタから3KmほどでY字(左手県道716号線、右手県道42号線)を右手に進み左手に佐田郵便局、さらに1Km先左手に佐田神社を越えると、右手に佐田小学校、その反対側が登り口で、佐田城址の碑と標柱が立っています。ここから登ります。

  


【訪城備忘録】

1月に登り口まで行きましたが断念し、今回、装備を整え登りました。しかしながら、遺構を見ながら後悔しました。夏場に来るべきではなかったと。草木に埋もれていますが、遺構の明瞭さと技巧は驚くべきです。藪がきつくて、深く入り込めないのが残念でした。

 さて、城跡ですが、青山という山の山頂を中心に尾根四方に城域が展開しているそうです。登り口より北に向かって尾根先端まで登ります。それ以後はそう急ではない尾根道を山頂に向かって登って行きます。途中、夏場は草木が多く、竹薮を抜けます。八割登ったところに低い二段の平坦地があり、その下に薄い横堀状の窪みが続いています。城郭遺構とすれば出丸ではないかと想像しました。さらに登ると、小さな堀切を越えて、大堀切に達します。大堀切と書きましたが、堀切の先(東・右手方向)には虎口を思わせる土塁の開放部があり、左手(西)は竪堀として落ちてはいますが、上の郭への城道を形成しており、堀底道になっているようです。堀切には大石が散乱していて上の郭側斜面に大石が石積み風に残留しています。石垣かは微妙ですが・・・。ここから、主郭に向かって手前から三の郭、二の郭、主郭とすると、三の郭下を大堀切からT字に続く横堀状を進みます。その先がまたT状で左手(西)は長い竪堀状、右手に登ります。10mほど登ると三の郭に入る手前にりっぱな石垣が残っています。この石垣のところから三の郭に沿って横堀が長く続いています。三の郭は広い空間で草木が伸びていて確認できませんが、起伏から二段になっているようです。三の郭を越えると明瞭な堀切がまたあります。これも横堀が連結しており、二の郭を巡るようです。二の郭はくの字とコの字を組み合わせた屈曲した土塁が東側に巡ります。草木が伸びていて見通せないのが残念でした。二の郭を越えるとまた堀切です。この堀切は左手(東)先で主郭・二の郭を連結している長い帯郭に繋がっています。主郭反対側下(西)は明瞭な横堀が巡り、折れが何箇所か入っており、この横堀は主郭北側下まで続いていました。さらに、数箇所に横堀内に仕切壁が施されていて、貯水の役目も果たしたのではないかと想像されます。主郭は屈曲した土塁は東側にあります。主郭も二の郭も西には土塁はなく、下を深い横堀が巡っているということに成り、東側は土塁が巡り、その下は帯郭があるという形です。その外支尾根のも遺構があるのかもしれませんが、草木が多くてこれ以上は断念しましたが、大変満足できた城です。それにしても、この時期の山城、くもの巣、蚊は当然ですが、気温が高いので、朝の7時から登城開始したものの、下りてきたときには汗びっしょり。でもね、この修行みたいのがまたいいんだよね^^;V


【歴史】

宇都宮親景が佐田荘地頭職を継承して、応永六年(1399年)にこの地に入り佐田氏と称し、城を築いたとされます。佐田氏は大内氏の家臣で宇佐郡代としての役目を果たしていました。大内氏没落後の弘治二年(1556年)に大友義鎮が豊前に進出し、翌年に宇佐郡衆は大友氏に従いました。天正六年(1578年)の耳川の合戦で大友氏が島津氏に大敗すると、大友氏から離反する国人領主が続出しましたが、佐田隆居・鎮綱父子は大友氏に従いました。天正十五年(1587年)に黒田孝高(如水)が豊前に入ると佐田一族は黒田氏に降り、のちに細川氏の家臣となり、細川氏の熊本転封にともない、それに同行したと伝わります。


 
  
主郭と土塁
  
山上よりの眺望
  
登り口城址碑               主郭案内板
  
三の郭手前堀切道
二の郭手前堀切       二の郭と土塁
主郭手前堀切       主郭下横堀

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