豊前/ 龍王城



ファイルNo1620


                         主郭下の石垣   

@ りゅうおうじょう 
  別名 神楽岳城 臥牛城
A住所:宇佐市安心院町龍王
     旧:宇佐郡安心院町

B目標地点: 
C形式:山城  D比高:200m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・石垣・碑・説明板 
G時代/人物:鎌倉期・戦国期
         /安心院氏・細川氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  中腹の神社より15分

J撮影・訪問時期:2006年10月

  
主郭

【道案内】 ←の登城道のある中腹の神社

佐市役所付近からは国道387号線で行くか、東九州自動車道(宇佐別府道路)で行きます。宇佐別府道路の安心院インタを下り、料金所を出て左折し、県道42号線に入ります。1.6Km先が宇佐市役所安心院支所前の信号で、ここを左折し国道500号線に入ります。400m先で右折し、県道50号線に入ります。正面に見える山が竜王山です。県道は1.6Km先で川を渡り、大きく左にカーブしますが、カーブ後すぐに右折し路地に入り山に向かいます。250m進むと左手に大手門跡の石垣と説明板があります。ここからさらに100m進むと二股道で、斜め左手の山道に入り中腹の神社まで登ります。

  


【現況・訪城記録】

神社の本殿横に小さい城址案内標識がり、ここから登ります。ここからの比高は120mほどでしょうか。つづらの道を登ります。尾根が近づくと、石垣の痕跡らしい箇所、虎口と思われる箇所を通り尾根に至ります。右手に進むとスロープ状の道が続き、その後は急坂になり、いっきに山頂まで登ります。このスロープ状の道を下に降りてみると石垣になっていますが、この石垣の役割がよくわからんです。主郭はテレビ中継所になっていて、アンテナが数本建っていて、城跡の雰囲気が台無しです。西側に降りていくと、竹薮になっていますが、広い平坦地を確認できます(一野彦兵衛殿丸?)。さらに降りると明らかに人工的加工がされた石がゴロゴロしており、石垣の残骸のようです。戻って、最初の尾根から左手に行ってみましたが、広い平坦地があります(遠坂越後殿丸・蟹氏丸?)が、これといって明瞭な遺構は確認できませんでした。これら縄張り・石垣遺構は細川時代の改修の跡のようです。


【歴史】

正安年間(1299〜1302年)に宇佐大宮司安心院公泰が築き、神楽城としました。建武年間(1334〜36年)に豊前守護の宇都宮冬綱の属城となり、その子の親綱が入り、龍王城と名付けました。弘治三年(1557年)には大友義鎮が、龍王城から豊前の侵攻をしました。天正六年(1578年)大友氏が 日向遠征で島津氏に耳川の戦いで大敗し、大友氏から離反する豪族が増えました。天正十年(1582年)に安心院中務入道麟生はこの城に籠城し大友氏に叛きましたが、大友氏に破れ、安心院氏は滅びました。天正十四年(1586年)に島津氏が豊後に侵入すると、大友義統は龍王城に逃げ込み、豊臣秀吉に助けを求めました。九州を平定した秀吉は豊前6郡を黒田孝高に与えましたが、龍王城は大友氏の属城でした。文禄二年(1593年)に大友氏が改易され、城は廃城となりました。慶長五年(1600年)に細川 忠興が中津城に入り、慶長八年(1603年)に忠興の弟 幸隆が1万石を与えられ、龍王城に入り、改修しました。幸隆は慶長十二年(1607年)に亡くなり、以後、 長岡伊勢守好重・長岡右馬 重政父子が城代となっていました。元和元年(1615年)の一国一城令で山城の龍王城は廃城となっていましたが、寛永九年(1632年)に小笠原氏の一族 松平 重直が三万七千石で入部し、龍王城西側山麓に居館を構えました。寛永十六年(1639年)に高田城に移り、後に島原領となりました。

  
主郭西側下の石垣痕跡
  
主郭西側下の郭
  
  

近くの城・関連の城:

            

麓の石垣(大手門)