豊前/ 光岡城



ファイルNo1599

宇佐では一番整備された城(県指定)

                          西側の空堀と土塁  

@ みつおかじょう 
  別名 

A住所:宇佐市赤尾 
B目標地点: 
C形式:丘城  D比高:50m 
E現況:山林(公園)

F遺構等:郭・堀・土塁・土橋・碑・説明板  
G時代/人物:室町期/赤尾氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  城址公園駐車場より1分

J撮影・訪問時期:2006年09月

  
西側の虎口と土橋

【道案内】 

東九州自動車道の宇佐インタを下り、接続の国道10号線(北大バイパス)を中津方面に進みます。5Km先、宇佐神宮方面から来る本来の国道10号線と山下で合流します。500m先の笠松の信号を左折します。この辺から光岡城址の標識が各所にありますので、迷わないとは思いますが、500m先で石井川を渡りすぐを右折、400m先を左折し、細い道を1Kmほど進みます。1Km先で左折し、300m先左に光岡城址公園の麓の駐車場があります。この駐車場より城跡への山道があります。800mほど坂道を登ると城跡手前の駐車場があります。

 


【現況・訪城記録】

城跡は丘陵の先端にあり、宇佐の平野部あるいは豊前の海が一望でします。発掘調査がされ、城址公園として整備がされていますので、大変見学しやすくなっています。単郭の城で、南北に長く、幅50m、長さは100mくらいありそうです。主郭を巡る空堀・土塁、西側の虎口と土橋が明瞭です。


【歴史】

貞和六年(1350年)に赤尾種綱は足利尊氏に従い戦功を挙げて、宇佐郡吉田村の地頭に任じられ、吉田を赤尾と改め、光岡城を築いたとされます。ただ、史料には寛正二年(1461年)に種遠が光岡山の麓に築城したという説もあるらしく、光岡城もそれ以後の築城の可能性もあるようです。赤尾氏は当初、豊前守護の大内氏に従っていましたが、弘治三年(1557年)に大友義鎮が本格的に豊前に侵攻すると、赤尾 賢種は大友氏に付き、以後、一貫して大友氏方に属し、時枝城の時枝氏、佐野城の佐野氏と抗争を繰り返したようです。天正六年(1578年)に大友氏が日向遠征で島津氏に敗北すると、大友氏の支配は不安定となり、豊前でも大友氏から離反する勢力が増えました。史料には、天正八年(1580年)に城井鎮房・長野 統秀・時枝鎮継らの軍勢が、赤尾三河入道(統秀) の宅所(居館)と切寄を攻撃しましたが、佐田氏(大友氏の要請)の援軍もあり撃退したとあるようです。


【追記】
この周辺では、居館を宅所、詰城を切寄(きりよせ)と呼びます。特に、大友氏関連の城館はそう呼称するようです。
  
主郭土塁(櫓台)
  
主郭内
  
  

近くの城・関連の城:
参考サイト 大分県教育庁埋蔵文化財センター・大分の中世城館 大分歴史事典

            

主郭よりの眺望                        東側空堀と土塁