豊後 府内城



ファイルNo1583


               天守台石垣            

@ ふないじょう 
  別名 荷揚城 

A住所:大分市荷揚町
B目標地点:
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園

F遺構等:石垣・水堀・現存櫓・復元門・説明板
G時代/人物:戦国・江戸期/福原氏・竹中氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  5分


J撮影・訪問時期:2001年03月・2023年03月

  

道案内 

東九州自動車道の大分インタを下り、県道21号線を東に進みます。2Km先で左折し国道210号線に入ります。1.6Km先でJRを越え、400m先国道10号線を横切り、400m先で右折となり国道197号線に入ります。1Km先左手が城址です。(JR大分駅の1Km北側という位置です。) あるいは、国道10号線中春日の信号で斜め左に入ると400m先が国道197号線と合流します。

訪城備忘録

2001年に訪城した以来、2023年に本当に久しぶりに訪城しました。2001年の頃はまだ城巡りを始めて数年と言う事も有、ただ見ただけと言う感じでした。2023年で相当に詳しくなったかもしれませんが、やっぱ来ただけで帰ってきた感じはします。(笑) 天候も良くなく、夕方であったため全体的に暗くなってしまいました。

まずは大手門から入ります。現在は土橋状態になってますが往時は廊下橋になっていたようです。90度左に曲がり大手門である櫓門をくぐります。この門は正式には多聞櫓門と呼ぶようです。昭和二十年(1945年)の空襲で焼失したため、昭和四十一年(1966年)に復元されたものです。城址公園内は今はただっぴろい広場のようになってますが。本丸の南側から東西を囲むように堀(内々堀と言うらしい)があり、西側にが西丸、東側に東丸がありましたが、堀は埋め立てられています。大手門を入って城壁沿いにまっすぐ行くと宗門櫓があります。この櫓は安政六年(1859年)の再建ですが、江戸期の現存櫓です。外側から見ると平櫓に見えますが、城内から見ると二階櫓です。石垣に一階部分が埋まっている感じです。南西隅には西之丸二階櫓が復元されています。大手門から東側へ進むと東丸で大手門のそばが着到櫓、東丸の北東角と南東角に二階櫓の模擬櫓が建てられています。

往時は本丸の南から東西に内々堀があったため、東丸、西丸の北側から本丸に入るようになっていました。今は内々堀が埋められているためその面影はないです。現在、本丸区域には天守台とそれに続く本丸櫓台石垣が残ります。天守台石垣は慶長七年(1602年)に四層天守を建てられた際の石垣です。また、天守台の北側には人質櫓が現存しています。現在の人質櫓は文久元年(1861年)に建てられたものです。
西丸の北東端に位置するところから廊下橋が復元されています。往時は山里丸へ繋がる橋でした。この廊下橋を発掘調査した際に発見された慶長期の石垣が山里丸に展示されています。

本丸・山里丸の北側は往時は海であったものですが、現在は市街地になっており、内堀のようになってます。さらに、本丸東側には川の河口と城郭を隔てるような堤があり、これの石垣が今も残ります。

歴史
大手門そばにある説明板

慶長二年(1597年)に福原直高によって築城が開始されましたが、慶長四年(1599年)に一部は完成したものの福原氏が改易、代わった早川長敏も関が原の戦いで西軍に与して改易され、慶長六年(1601年)に豊後高田より竹中重利が入封、城を完成させました。竹中氏の改易、日野根氏を経て、万治元年(1658年)に松平(大給)忠昭が入封し、以後、松平氏が明治維新まで続きました。


宗門櫓        現存建物        人質櫓
現地説明板より
2001年訪城時
大手門        西之丸隅櫓から
       天守台        天守台から廊下橋を見る
  
東丸隅櫓(模擬)
東丸三階櫓石垣
着到櫓
大手門
大手門
西丸南側石垣と宗門櫓(手前・現存)と西丸隅櫓(模擬)
     大手門を城内側から
宗門櫓(現存)
     西丸隅櫓
本丸櫓台石垣
天守台石垣
天守台石垣
天守台石垣
天守台石垣
天守台石垣
天守台石垣
   
廊下橋内部
廊下橋(推定復元)
天守台と本丸櫓台石垣
慶長期の石垣展示
人質櫓(現存)
東丸二重櫓と扇櫓石垣
扇櫓石垣と人質櫓
帯曲輪(中洲の堤)石垣
 帯曲輪(中洲の堤)石垣
東側から天守台を望む
東丸二重櫓

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