豊後 日出城



ファイルNo1579


               天守台石垣            

@ ひじじょう 
  別名 暘谷(ようこく)城

A住所:速見郡日出町二の丸 
B目標地点:日出小学校・日出中学校 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公共施設・宅地 

F遺構等:郭・石垣・堀・碑・説明板 
G時代/人物:江戸期/木下氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分


J撮影・訪問時期:2001年03月・2023年03月

  

道案内    ←二の丸駐車場

宇佐別府道路から日出バイパスに入り日出インタを下りて、国道10号線を別府方面に向かいます。1.4Km先が堀の信号で、国道213号線と合流します。堀の信号から1Km先が八日市の信号で、逆V字に左折し、600m先を右折、100m先を左折すると100m先右手が日出小学校です。向かいの二の丸館に無料駐車場があります。

訪城備忘録

2001年訪城から22年ぶりに2023年に再訪城しました。しかも天候悪く、日没過ぎてからの訪城で写真は暗い・・・−−; まあ、致し方無しです。 それでも、前回見れなかった鬼門櫓(当時は町中の宅地に移築されており、ボロボロになっていたようでしたが、それはそれで見て見たかった(笑))も見れましたし、石垣も堪能できました。

城跡の本丸は現在は小学校となっています。しかし、本丸周囲の石垣が良好に残ってます。まずは、二の丸駐車場ですが、裏門櫓(平櫓)が修築移築されています。この櫓は町内に払い下げられていたものを平成十二年(2000年)に修築し移築されたものだそうです。正面の小学校正門側に行きます。深い空堀が残り、石垣が残ります。左側から時計回りで海岸方面に向かいます、やや下りながらになります。左手は日出中ですが、ここは二の丸という事になります。間が本丸と二の丸の空堀と言う事です。直ぐに石垣の上に鐘楼が見えます。この位置は裏門櫓があった位置でこの鐘は江戸期は外大手(現在の二の丸館付近)の土塁上にあったものを明治期に移築したものとの事です。 そのまま本丸東側石垣沿いを進むと天守台石垣です。 

天守台の横を通り過ぎると別府湾に出ます。この城下、海底の数カ所から清水が湧き出ているため真水と海水が混ざるところらしく城下カレイが有名ですね。旬は5月から7月と言われます。 日出藩は端午の節句に全藩士に城下カレイの料理が出されたらしいです。

天守台は本丸の東南角にありますが、二万五千石(立藩時は三万石)にしては堂々とした天守台です。その西側にある望海櫓(楼)の虎口、石段は趣があります。 ここから本丸の西側下を進みます。こちらも現在は道になってますが、往時は途中からは空堀です。空堀道を登りきると移築された鬼門櫓の所に至ります。民家にあった櫓を平成二十年(2008年)にここへ修復移築されたものです。この櫓、切妻に煙抜けの窓と櫓の屋根自体が鬼門方角の角を落としているという珍しい形です。

本丸をぐるっと一周してきましたが、石垣が大変いい感じですね。

歴史

木下延俊は豊臣秀吉の正室北政所の実兄の木下家定の三男です。慶長六年(1601年)に延俊は姫路より三万石で入部するとすぐに築城はじめ、慶長八年(1603年)に完成しました。城の縄張りは義兄の中津城主細川忠興が行い、石垣の構築は、家臣の穴太理右衛門が野面積みで築いたと伝わります。寛永十八年(1641年)に木下延俊の遺言によって、二代藩主の俊治は、弟延由に立石で5千石を分知しました。三代藩主の俊長は中国古書を引用し、暘谷城と名付けたとされます。 <現地案内板より>

望海櫓虎口石垣 
現地案内板より       別府湾
移築された鬼門櫓<切妻に煙窓、屋根の一部の角が落ちている>
別府湾サービスエリアから日出城方向
日没の別府湾
日没の別府湾
現地案内板より
  
大手門横空堀石垣
裏門櫓跡に建つ時鐘(移築)
本丸石垣と正面天守台石垣
本丸石垣
天守台を下から
     望海櫓(楼)虎口
望海櫓(楼)から本丸への石段
      天守台
天守台
望海櫓(楼)石垣
本丸西側石垣
本丸空堀
本丸空堀・左手上は鬼門櫓(移築)
本丸空堀石垣
本丸空堀・正面大手土橋石垣
正面の建物は藩校致道館(移築)
鬼門櫓(移築)
鬼門櫓(移築)/角がわざと欠けている
裏門櫓(移築)

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