大分の城001  

                                                                               

時枝城  1615
城址碑

A 宇佐市下時枝
B県道時枝信号  

中津市方面から国道10号線で来ると、宇佐市佐野の信号で国道213号線(旧10号線)と県道629号線が交わる、変則交差点に至ります。ここで左折し、県道629号線に入ります。4Km先の時枝の信号の県道沿い右手の駐車場の端に城址碑があります。

C平城
F遺構等:碑
G室町期/時枝氏
H満足度:凸

応永年間(1394〜1428年)に時枝惟光によって築かれたとされます。弘治3年(1557年)の大友氏の豊前侵攻で時枝氏は大友氏に降りました。天正六年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで島津氏に敗北後、時枝平太夫鎮継は安芸の毛利氏に通じ、佐野城主佐野親重らとともに大友方の光岡城主赤尾統秀を攻めました。天正十三年(1585年)に高家城主中島統次に攻められ落城し、鎮継は毛利へ落ち延びました。鎮継は天正十四年(1586年)の羽柴(豊臣)秀吉の九州討伐では、黒田孝高に従い、黒田氏が中津城主となるとその家臣団に加わり、その後、中島氏を攻め滅ぼしました。慶長五年(1600年)の関が原の戦い後、黒田氏が筑前52万石で転封すると、時枝氏も従い宇佐を離れました。
J訪城:2006/10
  
宇佐・平田城  1618
城跡周辺
A 宇佐市森山字小東 
B

中津市方面から国道10号線で来ると、宇佐市佐野の信号で国道213号線(旧10号線)と県道629号線が交わる、変則交差点に至ります。ここで左折し、県道629号線に入ります。6Km先(時枝の信号から2.1Km先)の県道沿い左手に安楽院の白い標識が立っています。その北側200mのところに安楽院があります。そこからさらに400m進み、左折して200m進んだ貯水池の南側周辺が城域と思います。資料では方形の堀・土塁が残るとありましたが、確認できずでした。

C平城
F遺構等:土塁?
G−−期/−−氏 
H満足度:途中断念
城史、詳細不明

J訪城:2006/10
   
四日市陣屋  1597 
陣屋門
A 宇佐市四日市 
B 

中津市方面から来ると、宇佐市四日市の国道10号線西本町の信号で右折し県道44号線に入ります。130m先の信号で斜め左折します。200m先の左手路地(桜岡神社の50m手前)に左折し、60m先突き当たりに陣屋門があります。その裏手はテニスコートになっています。 路地の奥まったところに唐突な感じで陣屋門がポツンと建っています。その脇に四日市陣屋の石碑も立っていました。この地域は、室町期に、渡邉氏の切寄である四日市城(小倉城)があったところですが、今は、その城域については定かで無いようです。

C平城
F遺構等:碑 
G期/氏 
H満足度:凸

元禄十一年(1698年)に中津城主小笠原長胤は失政と乱行から領地を没収され、改めて、弟の長円に半地の4万石が与えられ、残りは幕府領となりました。それがこの地域で、代官として岡田庄太夫俊陳を任命しました。陣屋は元禄十三年(1700年)に築かれました。支配としては、四日市代官所は十五年ほどのみで、その後は、天草代官所の出張陣屋、後に、日田代官所の出張陣屋となって明治維新まで続きました。

J訪城:2002/07
立石陣屋  1582
北部中(立石陣屋)と
背後は城山(立石城)
立石城山すそ付近
A 杵築市(旧:速見郡)山香町立石
B北部中学校

国道10号線沿い、北部中学周辺が陣屋跡です。

C平城
F遺構等:なし  
G江戸期/木下氏  
H満足度:凸

交代寄合家。 立石陣屋は、寛永十八年(1641年)に日出城主の木下俊治の弟延由に5,000石を分知して分家し陣屋を築きました。初代藩主木下延由は豊臣秀頼の嫡男国松という伝承があります。

J訪城:2001/03