摂津/ 高槻城



ファイルNo1592

石垣と障子堀が発掘されましたが、残念ながら埋め戻しになりました。
            発掘石垣   

@ たかつきじょう 
  別名 
A住所:高槻市城内町 
B目標地点:しろあと歴史館 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・学校・市街地 

F遺構等:発掘石垣・碑・説明板・移築門 
G時代/人物:戦国・江戸期
     /和田氏・高山氏・永井氏
H満足度:
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  しろあと歴史館から6分
J撮影・訪問時期:2006年09月・2019年02月
            2019年09月


  
城址公園
(石垣は遺構ではありません)

【道案内】 

国道171号線の北大手の信号を南に入り300m先で左折し、さらに100m先で右折した先です。
 


【訪城備忘録】

城跡は明治以後市街化してしまい、ほとんどその痕跡が地表には残っていません。城址公園はきれいに整備された公園です。城址公園そばの「高槻市立しろあと資料館」には高槻城の資料など展示してあります。野見神社内永井神社の唐門は江戸期より現存の高槻城関連のものです。本行寺の山門も伝移築門と言われています。

2019年2月再訪
高山左近時代の堀が発掘調査され現地説明会がありました。幅16m、深さ4mの堀です。西日本にはめずらしい障子堀が確認されています。この障子堀、山中城のように高い土塁で乗り越えるのに苦労するという形ではなく、障子の大きさはバラバラでそんなに高いものではありません。これは泥を貯めて敵兵が移動しにくくするためのものとの事です。崩されていますが、その当時の石垣も同時に発掘されてます。残念ながら埋め戻されるようです。
2019年9月再訪
城址公園の横の高校に本丸石垣が移築展示されてます。この石垣、元々は高校の中庭にバラバラに置いてあったものですが、昭和50年に発掘された本丸石垣の90個の内、ほとんどは埋め戻されましたが、7個のみ教材として残したものとの事で、年月が経って石の由来がわからなくなっていたものが、最近資料で石垣と再認識され、今回、本物の石垣風に積まれ展示され 8月30日に展示セレモニーがあったそうです。

【歴史】

城は平安期に近藤氏が最初に築いたという伝承があります。南北朝期には入江春則が入り足利尊氏に従い、入江氏はその後十二代続きました。永禄十二年(1569年)に摂津に侵攻した織田信長に対し入江春継は破れ討死し、和田惟政が入りました。元亀二年(1571年)に惟政が茨木で戦死し、息子の惟長が城主となります。しかしながら、天正元年(1573年)に高山氏に追放され、高槻城は高山右近が入城しました。右近はその後に明石城主となります。(天正十五年(1589年)にキリシタン禁教令により所領を没収され、その後は加賀前田氏に仕え、マニラに追放されその地で亡くなりました) 高槻城は豊臣氏・徳川氏の直轄地を経て、内藤氏が入り、元和三年(1617年)に土岐定義が入り、近世高槻城に大改修しました。土岐氏から岡部氏に続き、慶安二年(1649年)には永井直清が入り、以後、永井氏が三万六千石で明治維新まで十三代続きました。


  
  
城址碑と発掘石垣
  
城址公園内城址碑
  
東大手門跡と石碑     本行寺の伝移築門
高校内に移築展示してある本丸石垣
障子堀(発掘調査現地説明会より)
石垣・胴木・裏込石(発掘調査現地説明会より)
  

近くの城・関連の城:

          

石垣・胴木・木杭
発掘調査現地説明会全景    石垣と胴木の二列
石垣 (発掘調査現地説明会より)
障子堀 (発掘調査現地説明会より)
石垣・裏込石(発掘調査現地説明会より)
石垣・裏込石(発掘調査現地説明会より)
石垣・木杭(発掘調査現地説明会より)
現地案内板より    しろあと歴史館より
桝形門石垣             高山右近教会跡
野見神社内、永井神社の唐門
高校内に移築展示してある本丸石垣
おまけ
高槻市田能のゴルフ場の模擬高槻城^^;;