越後/  高田城



ファイルNo1498


               復元櫓    

@ たかだじょう 
  別名 

A住所:上越市本城町
B目標地点:
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・学校

F遺構等:復元櫓・土塁・水堀・碑・説明板
G時代/人物:江戸期/松平氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  極楽橋前駐車場から5分

J撮影・訪問時期:2004年05月・2019年08月

  

道案内 

国道8号線から国道18号線に入り約10km先、鴨島の信号(高架)で右折し県道38号線に入ります。1.2km先で関川を越え、さらに1.2km先右手が高田公園です。 上信越自動車道の上越高田インタからはインタを下り、県道85号線を道なりに進みます。(県道は1.2km先左折、さらに、900m先で右折、後900mで左折の信号)センタ-病院入口の信号で左折し県道579号線に入ります。1.8km先の大手町の信号で右折し県道38号線に入り、700m先が高田公園です。
 
訪城備忘録

私のような古い北陸人には上越市と言うより、ずいぶん前に二つの市が合併して上越市になったんですが、前の直江津市・高田市の方がしっくり来る感じです。高田城は旧の高田市側にあります。2004年は夕刻の訪城でもうほとんど見えない状態でした。2019年にやっと再訪できました。復元ではありますが三階櫓と水堀が綺麗な公園です。また、土塁なども諸所に残っていました。幅のある西堀、南堀には堀の水面一杯に蓮が群生していて8月には花が咲いていました。

本丸碑
歴史

慶長十五年(1610年)堀忠俊が改易となり、変わって徳川家康の六男の松平忠輝が川中島から六十万石にて福島城に入封しました。慶長十九年(1614年)には天下普請で高田城が完成し、ここに移りました。しかし、忠輝は元和二年(1616年)に改易となり、その後は、酒井家次が高崎より十万石、松平忠昌が二十五万石、松平光長が二十六万石と変わり、光長が延宝九年(1681年)に越後騒動で改易となり、さらに、稲葉政澄が十万石、戸田忠真が六万八千石、松平定重が十一万石と城主が変わりました。寛保元年(1741年)に榊原政長が姫路より十五万石で入封し、明治維新まで榊原家の居城となりました。

内堀と土塁      土塁
三階櫓と水堀
現地案内板より Pが周辺駐車場です
  
三階櫓と土塁 内側から
三階櫓と土塁 西側から
三階櫓と土塁 南側から
土塁
内堀 西側
内堀 西側から北側
北側土橋現状     北側土橋そば内堀
極楽橋の石    櫓門の石
外堀・西堀 一面蓮
外堀・西堀 一面蓮
極楽橋遠望    大手門そば
外堀・西堀から南堀方向  一面蓮

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