越後/ 本与板城



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                         堀切   

@ ほんよいたじょう 
  別名 

A住所:長岡市与板町本与板
    旧:三島郡与板町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀・堀切
G時代/人物:室町期/飯沼氏・直江氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  林道途中から15分

J撮影・訪問時期:2006年04月

  

道案内 ←登り口

北陸自動車道の中之島見付インタを下り、料金所から左に出て、いったん国道8号線に入りますが、すぐに左折して県道498号線に入ります。1.6km先の中之島の信号で左折し県道20号線に入ります。4.5km先で国道403号線に合流し直進します。合流から1.4km先の与板橋で信濃川を渡ります。渡った先の与板橋西詰の信号を直進し県道378号線に入ります。600m先のT字で左折し県道274号線に入ります。500m先で左折し、150m先で左手がコンクリート工場への道、右が丘の上の工場への道になります。この右手の坂に入り、70m先、工場手前で右折し林道に入ります。300m程度進むと、城の案内が有り、車が止められる箇所があります。ここから登ります。 
 
訪城コメント

本与板城という名称ですが、与板古城ということになります。与板城より築城時期は古いのですが、残存度合もあるでしょうが、与板城より大きさを感じますし、戦闘的な印象があります。

城址碑
歴史

築城時期、築城者は不明のようですが、建武元年(1334年)に新田義顕の一族の籠沢入道が築城したのではないかと言われています。南北朝期に入ると越後守護上杉氏の重臣であった飯沼定頼が与板の地に入り、宝治三年(1451年)頃より飯沼氏が与板を治めていました。永正四年(1507年)の守護上杉房能と守護代長尾為景の争いで、飯沼頼清は居城の本与板城を長尾為景に攻められ滅亡しました。その後、天文十五年(1546年)頃にこの地には長尾為景の家臣の直江実綱が入りました。実綱の跡は実綱の娘婿の信綱が継承しましたが、御館の乱直後に殺害されたため、上杉謙信の継承した上杉景勝は、直江家の断絶を惜しみ、信綱の未亡人お船(実綱の娘)に樋口与六を婿として直江家に入れて、直江兼続として直江家を存続させました。兼続は旧本城の本与板城を整備しつつ、新城として与板城を築城し、本拠を移しました。慶長三年(1598年)、景勝が会津120万石に移封に伴い兼続も米沢に移ったため、本与板城も与板城とともに廃城になりました。




  
現地案内板より
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