大和 / | 高取城 |
ファイルNo1572 |
近世三大山城のひとつ 山全体が石垣という感じ
@ たかとりじょう |
|
【道案内】 ←壺阪口近くの登り口 ←七つ井戸下からの登り口 ←麓からの登り口 西名阪自動車道香芝インタで下り、国道168号線を南に進みます。2.5Km先の下田の信号で左折し国道165号線に入ります。5Km先大和高田市内で国道は大きく右にカーブします。さらに2Km先、今里の信号で左折します。4.5Km先の橿原市の小房の信号で右折し国道169号線に入ります。(あるいは、西名阪自動車道郡山インタで下り、いったん国道24号線に出てすぎに右手の京奈和自動車道も郡山南インタに入り、約10Km先の橿原北インタで下ります。2.8Km先の曲川町東の信号で右折し国道166号線に入ります。2.8Km先が小房の信号で右折し国道169号線に入ります。) 橿原神宮を右手に見ながら6Km進み、 壺阪山駅前の信号で左折し、約400m先のT字路で右折、町内外周道路を約1.4km先まで進んで左折し、約800m先が宗泉寺下の登城口です。 または、壺阪山駅前の信号で左折し、約100m先を右折し旧土佐街道に入ります。町中を抜ける感じで約1.8km先で町内外周道路で、これを越えて約800m先が宗泉寺下の登城口です。 さらに、高取町内のうづら町の信号で左折し、約1km先で集落を抜け、約800m先が宗泉寺下で車では行けますが、駐車場がないですね。 宗泉寺下から二の門跡(水堀・猿石の周辺)まで約1kmの山道を歩きで登ります。 あるいは、高取町の下土佐の信号から1.5Km先、国道169号線の清水谷の信号で左折し県道119号線に入り2Km先が壷阪寺があり、ここよりさらに3Kmほど山道を登ったところに壷阪口門下からの登城道があります。この先の林道は車は通行止めですが七つ井戸の下まで林道は続いています。 【訪城備忘録】 高取城は備中松山城(岡山県)、岩村城(岐阜県)とともに、江戸期にはめずらしい山城の近世城で、日本三大山城と言われます。この三城ともに山全体が総石垣という感じで、壮大で圧巻です。その中でも、高取城は石垣の城域が三城の中では一番広域ではないでしょうか。各所で石垣を積み直しもされていますが、刻紋(刻印)3ケ所、天守台の穴倉隅の転用石を含めた転用石(古墳の石)を探しながら見て歩くのも面白いです。弥勒の堀切は石垣作りの堀切です。これも近世の城ならではでしょうかね。 2009年7月再訪 町を抜けて宗泉寺そばから徒歩で登りました。往時も大手道だったんでしょうが、けっこうきつい^^; 江戸期は警備以外の人間はほとんど登らなかったちゅうのがよく分かる・・・。二の門そばに猿石があります。古墳時代のもので、築城(改修)時に石垣用として運び込まれたようですが、高さが80cmくらいあってけっこう大きいし、石に刻まれた顔も鮮明で、少し感動したです。二の門そばの水堀(池)もけっこう大きいもので、こんな形で山上に水源をもった城はめずらしいです。これより大手門までは随所に郭・門と石垣があるのですが、夏場で草が伸び放題で残念でした。その中で、国見櫓からの眺望はよく、今の高取城の眺望の中では一番のポイントですね。この付近、矢場門から松ノ門までの石垣もなかなかいい感じです。宇陀門、千早門を過ぎると主要部です。ここからは圧巻の高石垣群です。 2013年11月再訪 紅葉の一番いい時期に訪れました。本丸周囲の紅葉が見事です。また、主要部のみならず、尾根遺構である岡口御門跡の堀切、2002年には一度訪れた弥勒の堀切、その時は、あまり記憶に残っていなかった弥勒の堀切へ行くまでの道筋にある石垣、堀切、登り石垣など、山上の主要遺構はほぼ見学させていただきました。この日は晴天であり、国見櫓からの眺望も一段と映えており、めいいっぱい、1日1城を堪能致しました。 2018年11月再訪 紅葉はやや早い感じでしたがそれでも綺麗。今までと違い、驚くほど訪問者が多かったです。吉野口郭周辺の赤土郭や武家屋敷群先の堀切など新たに見学したところも含め、1日高取城で楽しませていただきました。木などの伐採も進んだんでしょうか、前回よりさらに遺構が見やすくなってました。 2019年04月再訪 城仲間の案内で再訪しました。火薬櫓や赤土郭から延びる尾根下にある堀切・土橋など新たに見てきました。 2023年08月再訪 壺阪寺のついでに夕方に壺阪口から登り、中核部だけ歩いてみました。中核部のみでしたんで、新しい発見はなかったですが、千早門と宇陀門の間の郭の伐採が進んだかなという感じです。 【歴史】 正慶元年(1332年)に大和の豪族の越智邦澄によって築かれたとされます。天正八年(1580年)に織田信長の廃城令によって一時廃城となりましたが、天正十二年頃には筒井順慶によって再建され、家臣の加蔵弥八郎が在城したと伝わります。天正十三年(1585年)には順慶の子の定次が伊賀上野に転封となり、大和・紀伊・和泉を領した豊臣秀長が大和郡山城に入り、高取城は家臣の本多太郎左衛門・利朝親子が入りました。文禄四年(1595年)に秀長の養子の秀保が没すると、利朝は秀吉より一万五千石で独立した大名となりました。関が原の戦いで東軍に属し、二万五千石に加増を受けますが、寛永十四年(1637年)に利朝の子の利家が没し、本多氏は無嗣断絶しました。一時幕府管理を経て、寛永十七年(1640年)に植村家政が二万五千石で入り、以後、明治維新まで植村氏が続きました。 |
|||
|
||||
|
||||
高取城・詳細写真のページへ⇒☆ |
紅葉の本丸虎口の写真 |
近くの城・関連の城:
高取城の紅葉 |
高取城・詳細写真のページへ⇒☆ |