肥後/ 熊本城



ファイルNo1691

天下の名城です。 2016年熊本地震で大きな被害があり、完全復旧には2052年までかかるようです。

              竹の丸から天守方向 2007年              

@ くまもとじょう 
  別名 

A住所:熊本市本丸
B目標地点:
C形式:平山城  D比高:30m 
E現況:公園・市街地

F遺構等:郭・現存櫓・門・復元天守・石垣・堀
G時代/人物:江戸期/加藤氏・細川氏
H満足度: 凸凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  市電熊本城前より15分

J撮影・訪問時期:2007年04月・2023年03月

  

道案内 

熊本駅から市電3号線で熊本城前まで乗り、進行方向左に行くと熊本城です。車の場合は、二の丸駐車場あるいは刑部邸そばの三の丸駐車場に留めることになります。

訪城備忘録

2007年訪城
朝の8時過ぎから歩き出して正午過ぎまで歩き回りましたが、それでも不開門・東竹ノ丸の平櫓群のところは、下から見上げるだけでした。竹之丸から見る重なる石垣の先に見える天守の光景は最高です。この日は本丸御殿復元工事の足場外しのクレーンが二基いたので、目障り^^;ではありましたが、それも致し方ありません。

竹之丸より本丸に向かって進みました。反りのある高石垣が圧巻です。飯田丸を下から見ると高石垣と復元飯田丸五階櫓もええ感じです^^V 竹之丸より本丸に向かって進みました。反りのある高石垣が圧巻です。 宇土櫓は丸岡城を思わせる古式な感じで、確かに天守級の建物でした。西出丸堀側から宇土櫓を見ると名古屋城の内堀から天守を見るごとくの高さがあります。 戌亥櫓(復元)を見ながら二の丸広場を歩きますと塀越しに見える大小天守と宇土櫓もなかなかです。

北側に廻り、平櫓・不開門あたりから見る石垣・天守もなかなかよいです。 なお、熊本城の現存建物は宇土櫓・監物櫓(長岡図書預櫓)・平櫓・五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓・源之進櫓・四間櫓・十四間櫓・七間櫓・田子櫓・長塀・不開門で、大小天守は昭和三十五年(1960年)に外観復元で建てられ、その後、戌亥櫓・未申櫓・数奇屋丸二階御広間・西大手門・南大手門・元太鼓櫓・西櫓御門・飯田丸五階櫓・本丸御殿が復元され、2007年の築城400年祭を挟んで、さらに、三つの五階櫓や北大手門などの復元が予定されているとの事です。

2023年訪城
熊本地震後初めての訪城でした。至る所の石垣が崩落し、櫓(復元)とともに崩れた箇所でそのままになっているところもありました。 短い間に大天守小天守を復元されただけでもすごいご努力と敬服致します。宇土櫓は解体修復工事が始まり秋にも櫓は解体され石垣を修復され元に戻るのは2032年頃になるようです。現在は修復工事が並行で行われているため空中回廊という見学道が設置されています。今回歩いてみて、立ち入り禁止も多いためか前回のどこと一致なのかわからなくなってしまいました。 前回は復元本丸御殿は工事中でした。今回も地震で入ることは出来ませんでした。また、時間の都合で北側には廻れませんでした。北十八間櫓、東十八間櫓は現存櫓であったものですが地震で全壊しています。

加藤清正像
歴史

文明年間(1469〜87年)に菊池氏の一族の出田氏が茶臼山に築城したのが隈本城でした。天正十五年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐後、越中富山城主であった佐々成政が城主となりましたが、失政により秀吉より切腹させられ、肥後は北半分を加藤清正、南半分を小西行長が領し、清正は隈本城に入りました。関が原の戦い後、肥後一国を領した清正は慶長六年(1601年)に城を大規模に改修し、慶長12年(1607年)に隈本から熊本に改めました。寛永九年(1632年)に加藤忠広が改易され、小倉城より細川忠利が入封し、以後、明治維新まで細川氏の居城でした。明治十年(1877年)の西南戦争の際、谷千城率いる官軍は薩摩軍の攻撃に耐えましたが、天守など多くの建物が焼失しました。

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飯田丸五階櫓(復元)  2007年     大天守(復元)     
奥に小天守と大天守・手前が宇土櫓/2023年
行幸坂より大天守(復元)と桜
行幸坂より未申櫓(復元)と桜
奉行丸下石垣と桜
現地説明板より
復元大天守・小天守/2007年
復元大天守・小天守/2023年
宇土櫓(現存)/2007年
宇土櫓(現存)/2007年
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