道案内 |
中国自動車道の佐用インタを下り、料金所の先の信号を右折し、国道373号線に入ります。2km先の上町の信号で右折し、国道179号線(国道373号線と併用区間)に入ります。7.5km先の上月三差路の信号で直進して国道373号線に入ります。600m先、国道沿いに上月城址の案内標識がありますので、右折し路地に入ります。200mほど進むと上月歴史資料館が右手にあり、左手に説明板と登り口があります。
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訪城備忘録 |
2008年3月に訪れた時は、夕方の訪城の上、雨が本降りになってしまい、城跡に登るのは断念しましたので、再訪です。麓からつづらの道を登ります。山頂が近くなると浅い堀切が見え、城域に入ったのがわかります。その上に郭が二段ありますが、土塁も無く変化の無い感じです。主郭も広いものの周囲の構えについてもあまり技巧は感じられません。背後の尾根に下りていくと尾根上に細長い3段の郭が続き、その先に堀切が二条あります。典型的な連郭の城です。歴史的には尼子氏が最後を戦った城として有名ですが、小ぶり感はあります。これを毛利氏の大軍にに囲まれたとなれば、成すすべも無かったでしょう。麓には上月歴史資料館、尼子勝久追悼碑、山中鹿之介追悼碑、上月氏発祥之地碑などがあります。
2022年01月、仁位山城に登ったんですが、そこから上月城を見ると主郭が丸見え。 上月城に籠城していたらやだっただろうなぁ。頭上に敵陣・・・。
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説明板
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延元元年(1336年)に赤松氏の一族の上月次郎景盛によって築城されました。嘉吉元年(1441年)、三代上月景則は嘉吉の乱で幕府追討を受け、上月氏は滅亡しました。弘治三年(1557年)には赤松正元が置塩城から移り、子の赤松正範は西播磨五郡十六万石を領しましたが、天正五年(1577年)に羽柴秀吉に攻められ落城しました。その後には尼子氏再興を目指す尼子勝久、山中鹿之介主従らが入りましたが、天正六年(1578年)に毛利軍に包囲され、羽柴秀吉が救援するも、三木城の別所氏の離反で、三木城攻略の上月城救援から撤退し、孤立した尼子氏は勝久が自刀し、山中鹿之介幸盛も捕らえられ、備中松山の地で処刑されました。上月城はこの時廃城になりました。
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