丹波 | 岩尾城 |
ファイルNo1604 |
@ いわおじょう |
道案内 ←登城口 | |||
舞鶴若狭自動車道の黒井インタを下りて国道175号線へ左折します。ここより国道を旧山南町に向かってひたすら進みます。17Km先山南町の草部の信号で右折し県道109号線に入ります。加古川を渡り、橋から1.2Km先m池田大橋の信号の手前で斜め右に入ります。1.1Km先の右手和田小学校、左手和田出張所・公民館で出張所の裏手の駐車場をお借りして駐車します。和田小学校正門から校内を抜け裏手に廻り、石段を上がっていくと岩尾城説明板があります。そこから登城道があります。なお、休日は小学校裏手(登り口側)の来客駐車場が利用できるようです。また、小学校より250m手前から右手に入った親縁寺からも登れるようです。 |
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訪城備忘録 | |||
2006年訪城 もう夕方近くになっての訪城でしたので、日没との戦いでした(笑)城跡は蛇山山頂にあります。小学校裏手を少し登ると岩屋城の説明板があり、ここより右手の山の斜面の小道を進んでいきます。10分ほどで尾根に登ります。右手の親縁寺からの道と合流します。左手山頂に向かって尾根道を登ります。さらに10分ほど登りますと南曲輪・下知殿丸曲輪という削平地を越えると堀切のところに至ります。この正面の急な斜面の上、山頂が主郭ですが、堀切のところで左に回りこみます。井戸が残り、その先には山の斜面に相当量の石垣が残存します。300mほど進むと右手の急斜面にのぼります。ところどころに木の階段が設置してあります。20mほど急斜面を登りと出丸の石垣のの所に至ります。ここから総石垣の城跡が姿を現します。西の丸、二の丸、本丸、天守台と総石垣です。ただ、ひとつの曲輪は狭く、天守台と言ってもちょっとした櫓程度の大きさで、近世の総石垣の城のミニュチュアを見てるような感じがします。これは中世の土の城に石垣で無理やり覆ったという感じなんでしょうか 山頂は見張り台でここには土塁がのこり、この背後は急斜面で下には広い郭が見えてましたが、時間が日没を越えていたため下まではおりませんでした。この周囲は中世の城の遺構が残っているという感じです。 2021年訪城 ここ比高は220mほどですが その比高より登城道は長く感じます。まずは尾根まで登り、「←岩尾城、親縁寺→」の標識の所で左手に進みます。そこより尾根道をどんどん登ります。「南曲輪」、「下知殿丸曲輪」と標識のある平坦地を越え、主要部下の堀切に至ります。この堀切を越えると井戸があります。石組と岩盤の井戸で今も水が湧いているようです。井戸の先右手に大規模な石垣が残ります。道沿いの石垣と斜面上に石垣が見えます。最近、山頂部を含め大規模に伐採整備をされたようで石垣がここも山頂部の非常に見やすくなってます。最後の急坂を登りきると山頂主要部です。戦国の主郭を含む山頂部に石垣の城を押し込んだという印象で、窮屈というか近世城郭のミニュチュアという印象は残りますが、最近大規模に伐採整備されたため石垣が非常に映えてました。前回日没で行けなかった北側土塁の先に下りてみました。急な斜面を下りると大きな曲輪があり、差廓の北側左右の尾根には郭下と尾根上に連続堀切があり、尾根上の堀切には土橋が残っています。特に右手の尾根の堀切土橋は明瞭でした。なお、岩尾城は蛇山山頂にありますが、蛇が多いからというわけではなく、城山(じょうやま)が蛇山(じゃやま)に変化したものではないかとも言われています。 |
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和田氏は本性を谷氏といい信濃の出身でした。三代目が谷姓から和田を名乗り、この三代目の和田日向守斉頼(ときより)は永正十三年(1516年)に築城しました。天正七年(1579年)に明智光秀の侵攻で落城しました。天正十四年(1586年)に佐野下総守栄有が再築城し、主要部は総石垣の城に改修しました。文禄四年(1595年)に近江木戸に移封となり、慶長元年(1596年)に豊臣秀吉の城取り壊しの命により廃城となりました。 ※ 佐野下総守栄有は近江湖西の木戸氏の出で、元々は木戸十乗坊秀方と名乗っていたようで木戸城、木戸山城などが本拠であったようです。 |
2006年訪城 |
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