安芸/ 吉田郡山城



ファイルNo2003

毛利家の初期・中期本城

                          主郭と櫓台  

@ よしだこおりやまじょう 
  別名 郡山城 

A住所:安芸高田市吉田町郡山
    旧:高田郡吉田町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・石垣・堀切・碑・説明板
G時代/人物:南北朝期/毛利氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  中腹駐車場より20分

J撮影・訪問時期:2008年10月

  

道案内 ←中腹駐車場

山陽自動車道の広島インタを下り、国道54号線を可部・安芸高田・三次方面に向かいます。34km先、高田消防署前の信号を左折し県道6号線に入ります。600m先で右折ると正面が歴史民俗資料館で、この横を通り山に向かいます。300m先で二股に道が分かれますが、どちらからでも行けますが左手に入ります。大通院谷川砂防公園を通り抜けますと駐車場になります。左手の毛利元就墓所に向かう道から入ります。 (あるいは、中国自動車道高田インタを下り、インター入口の信号を左折し県道64号線に入ります。約2.2km先、高田インタ西の信号で左折し県道6号線に入ります。約12km先が歴史民俗資料館へ左折です。)
 
訪城コメント

駐車場から山道を進みまずは毛利元就の墓所に至ります。寺の跡でもあるわけですが、周囲は木々に囲まれ、神聖な場所という感じがします。尾根まで登り、さらに進むと御蔵屋敷の郭に至ります。ここから主要部(主郭(本丸)・二の郭(丸)・三の郭(丸))の高地を取り囲むように御蔵屋敷ー釣井の段ー姫之段ー釜屋の段ー厩の段などが放射状に郭が連なります。三の郭・二の郭は広い郭でこの周囲は石垣が散乱しています。主郭(本丸)奥には櫓台跡の大きな土塁も残ります。さらに勢溜の段は幅の広い段郭が尾根上に数段連なっています。江戸期に破城されたせいで、石垣の石が散乱してはいますが、石垣がきれいに残っている箇所はないようです。確かに大きな城ではありますが、正直は、期待した(思っていた)毛利の本城というには少し期待はずれ(物足りない)だったかな^^;

麓の碑と説明板
歴史

建武三年(1336年)に毛利時親が築城しました。この時の城域は現在の主郭(本丸)の南東部分の尾根先端にあった小さな城であったようです。十二代元就の時に大改修し主郭(本丸)を山頂部分に据えた全山城域に拡大し、元就の孫の輝元の時にも石垣の使用などの改修が行われたようです。しかし、豊臣大名となった毛利氏は郡山城は交通が不便のため、天正十九年(1591年)に広島城を築城して移りました。実質的にはこの時に廃城となりました。寛永十四年(1637年)、島原の乱の後、キリシタンの決起を恐れた江戸幕府は郡山城の石垣、堀など破城したとされます。

現地説明板拡大
主郭・二の郭下の石垣
御蔵屋敷
 姫之段                        釜屋の段 
三の郭
勢溜の段 
  
現地案内板より(クリックすると拡大します)                 城跡遠景     
       毛利元就の墓              青山(左)・三井山(右)尼子陣所遠望

毛利元就墓所
明応六年(1497年)に毛利弘元の次男として生まれた元就は、幼名を松寿丸と言い、幼くして猿掛城に住したとされます。永正八年(1511年)に元服して元就と名乗ります。永正十三年(1516年)に兄の興元が急死し興元の遺児の幸若丸が家督を継ぎ、元就は後見役となりますが、幸若丸も大永三年(1523年)に9歳で死去したため、元就が家督を継ぎました。その後、弘治元年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を討ち、永禄九年(1566年)には出雲の尼子氏を滅ぼし、一代にして中国地方8ケ国の太守となりました。弘治三年(1557年)または永禄元年(1558年)に家督を長男の隆元に譲るも、隆元は永禄六年(1563年)に急死し、隆元の嫡子の輝元が家督を継ぎましたが、実質は元就が主導しました。元亀二年(1571年)に75歳で吉田郡山城にて死去しました。墓標にはハリイブキを植えられました。(今は枯れていて、右の白い幹の木だそうです。)



尼子陣所
天文九年〜十年(1540〜41年)に尼子晴久(詮久)が郡山城攻めに陣した場所です。

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