豊前/ 長野城



ファイルNo1812

200条の畝状竪堀を持つ城

                 本丸(主郭)の畝状竪堀(上から)  

@ ながのじょう 
  別名 

A住所:北九州市小倉南区長野〜貫

B目標地点:
C形式:山城  D比高:150m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・畝状竪堀
G時代/人物:平安期〜戦国期/長野(平)氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  高速道ガードより20分

J撮影・訪問時期:2007年12月

  

道案内 

九州自動車道の小倉南インタまたは都市高速道長野インタから国道10号線に入り、行橋方面に進みます。インタから500m先の津田西の信号で右折します。(県道25号線は左折でJR下曽根駅が近いです。)ここから、新道を2.5km先で新道に沿って道がヘの字に平行している箇所があります。双方信号が付いていて、ここを左折し入ります。(どちらから入っても同じ)その付近に埋没文化財調査事務所があり、2007年12月時点では発掘調査をしていました。ここの細い道を高速道路に向かって進みます。300m先で林道入口ですが車両は通行止めになってます。この入口周辺はロータリ状になっています。ここに駐車し林道に入ります。高速道路のガードをくぐり、後は林道を登って行きます。800mほど歩きと小さな木片の札で長野城出丸方面の表示があります。ここから入ると出丸を経由して本丸です。林道をさらに300m進むと長野城二の丸方面の標識があり、ここから二の丸に登れます。さらに林道を900mほど進むと長野城本丸(馬場経由)という案内板があります。ここまらは馬場を経由して本丸(主郭)に最短です。私は出丸から入って本丸(主郭)周辺を廻り、二の丸を経由して戻りました。
 
訪城備忘録

城は主郭(本丸)を中心に左尾根に出丸、右尾根に二の丸がある馬蹄形の城域です。このU字の外側全域に畝状竪堀が200条(資料より)構築されています。これだけの畝状竪堀は全国最大級ということです。北九州の城はどこも畝状竪堀が多い地域ですが、200条は確かにすごい数です。でも、実際に行ってみて、ほとんどが浅くなり、おまけに藪のところが多くて、壮観さという点では岐阜の広瀬城や篠脇城、福井の一乗谷城山の畝状竪堀の方が明瞭で見応えがあるようには感じました。それでも、主郭東側と二の丸南側及び北側の畝状竪堀は比較的見やすく明瞭に残っていました。また、出丸と本丸(主郭)側の二重堀切、二の丸南側(本丸(主郭)側)の堀切、二の丸西側の長い大きな竪堀もはっきりしています。それにしても、岐阜の篠脇城は狭い主郭周囲を360度畝状竪堀で囲んでして、これはこれで驚きましたが、ここの城はU字の外側全体、つまり城域の外側全体、距離にして800m程度をすべて畝状竪堀が構築されているわけで、これはこれで異常?な感じですな・・・^^;

本丸(主郭)
歴史

保元二年(1157年)に平時盛の六男修理判官康盛が豊前国司となり、長野氏を称しました。応永六年(1399年)に大内盛見に攻められ降りましたが、応仁元年(1467年)に大友氏が反撃し、長野氏は大友氏に従いました。文明十年(1476年)以降、大友氏と大内氏の争いの中、長野氏は大内氏に従いました。天文二十年(1551年)に大内義隆が陶晴賢に殺害され、弘治元年(1555年)に陶氏は毛利元就と安芸厳島で敗れて、毛利氏が安芸・周防・長門を掌握時は長野氏も毛利氏に従っていましたが、弘治二年(1556年)の大友氏の豊前攻勢で長野氏は大友氏に従ったため、永禄十一年(1568年)に毛利元就が大軍をもって長野城を攻め落城しました。その後、長野氏は天正六年(1578年)に長野義俊が馬ヶ岳城に復活、長野城も存続したようです。天正十五年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐後、長野氏(太郎左衛門)は筑後(現:うきの市吉井町)に5000石で国替えとなり、長野城は廃城になりました。

本丸(主郭)東側下畝状竪堀
二の丸南側の畝状竪堀と堀切       二の丸の切岸  
二の丸北側の畝状竪堀   二の丸西側の大きな竪堀

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