丹後 石川城



ファイルNo4201


            東尾根の堀切            

@ いしかわじょう 
  別名  

A住所:与謝郡与謝野町石川
    旧:与謝郡野田川町

B目標地点:福寿寺
C形式:山城  D比高:125m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・畝状堅堀・土塁・碑
G時代/人物:戦国期/石川氏or一色氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分

J撮影・訪問時期:2025年06月

  

道案内   ←登り口

舞鶴若狭自動車道の綾部ジャンクションから綾部宮津道路に入り、さらに宮津天橋立インタから宮津与謝道路に入り与謝天橋立インターで下り、国道176号線へ左折します。約2.5km先の石川の信号で斜め左折の国道176号線に入ります。約400m先、中地の信号を左折し府道16号線に入ります。約300m先(香河川を渡ってすぐ)を左折し約250m先が福寿寺です。山門から左手に行くと城址碑と登り口があります。

訪城備忘録

この周辺の石川氏関連の城としては、石川氏の本城とされる安良山城、石川五右衛門の出生の城とされる伊久地城、そして、ここ石川城などがあります。石川城、伊久地城は思った以上に城域が広く、石川城については畝状堅堀があり、堀切もしっかりしています。西の主郭の東下、大堀切と言うか尾根の鞍部と言うか、ここを境に西の郭群と東の郭群に分かれるように見えます。

麓の福寿寺から登ります。登り口に城址碑があります。支尾根先端まで登り、主郭に向かってひたすら支尾根を登って行きますが、わりと広い段郭、高さのある切岸が続きます。主尾根まで到達したら主尾根下を東へ横移動すると西の主郭の南下郭に至ります。木々が伐採されて低い木しかないため空が抜けてます。 この郭の背後のそんなに高くない切岸を登ると西の主郭です。主郭には北側から東側へしっかりした土塁が巡ります。特に東側が分厚くて高いです。主郭北側下に北の副郭がありますがそこそこ広いです。また、主郭との切岸もそこそこあります。ここから東下に下りたいのですが、余りの高さなのでいったん戻り、主郭から西の副郭に行きます。この西の副郭も広さを感じます。西の副郭の北側斜面を慎重に下ります。斜面下まで下りると北へ横移動しますと大きな堅堀(自然地形?)があり、その向こうに畝状堅堀があります。この畝状堅堀はコブ形でしっかり4条ほどは確認できます。西の郭群はこの畝状堅堀はありますが、堀切は確認できません。

さらに時計回りで主尾根方面に登ると西の郭群と東の郭群の間となる大堀切?(鞍部)です。西を見上げると西の主郭の東下の郭の斜面という事になりますが、めちゃくちゃ高いです。 ここより東は東の郭群となります。斜面を登ると東の郭群で一番大きな郭です。東の郭群の主郭ですかね。ここより郭間は堀切で処理された郭が並びます。東端の郭は急に巨石の斜面、郭内にあります。磐座なんやろうか? この周辺ではあまり見ないですが・・・。 なお、鞍部から西の主郭の南斜面を越えると西の主郭の南下郭に至ります。危険をおかして北斜面に下りないで、南から東に下りていき、鞍部から畝状堅堀群、東の郭群を見に行った方が安全ですね。

西の主郭の北西尾根の郭群、南尾根の郭群など行ってませんので、すべて見学したとは言えませんが、非常に広い城域であると言えますね。東の郭群と西の郭群に城の作り方に違いがあります。西の方が新しいんでしょうかね?

歴史
城址碑





築城時期、築城者は定かではないようです。丹後守護一色義有の後継者争いで、永正九年(1512年)、義有の死去後、石川直経が擁立し石川城に入った一色義清と守護代が推して成願寺城に入った一色九郎が争ったようです。義清が守護を継承したとも言われますが定かではないようです。義有の後の守護は義幸と言われます。

戦国末期。石川城には金谷氏が居城としていたようですが、天正十年(1582年)に落城しているようです。

西の主郭の土塁     畝状堅堀    
  
登り口から支尾根を登る途中の郭の切岸と郭内
同様に支尾根の切岸と郭
支尾根の高い切岸
支尾根の中間地点の切岸と郭遠望
虎口状     段郭
主尾根方向を見上げる 
主尾根手前
 西の主郭の南下郭     主郭の切岸    
主郭
主郭土塁
主郭土塁
      主郭東下郭    東下郭から主郭切岸
西下郭
北斜面堅堀?
畝状堅堀
畝状堅堀
東西の鞍部(大堀切?)
鞍部より西主郭方面を見上げる
東の尾根郭群
鞍部より東尾根     東郭1     
東郭1と土塁
堀切1を上から
堀切1
郭2
郭2の東端
堀切
切岸  
堀切3と土橋状
堀切3と土橋状
堀切4
堀切4
東端郭手前
堀切5
東端郭手前
東端郭切岸
東端郭の巨石
東端郭の巨石

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