道案内 |
名神高速道路京都東インタを下り、国道1号線を五条方面に進みます。約2.5km先の山科東野の信号を左折します。約1.5km先の山科区役所前の信号を右折します。約1km先、新十条西野道の信号を左折します。約4.4km先で斜め右に右折します。200m先の正面が小栗栖八幡宮です。八幡宮前のY字を左側へ50m先右手に逆Y字に登る道があり、登ると八幡宮の社務所兼自治会館です。 ここに停めさせていただくか、最後に斜め右に入った角から50mほどまだ直進すると左手にコインパーキングがあります。城跡は八幡宮から220m先、本経寺の東下の木の明智藪の標識の東側の低い丘が城跡です。
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訪城備忘録 |
この地は明智光秀の終焉の地として有名な所です。八幡宮から220m先、本経寺の東下が通称明智藪で、この辺で明智光秀の討たれた場所とされます。本経寺には明智光秀の供養碑あるようですが、よくわからんかったです。^^; 明智藪の木柱のある付近からなんか相当に竹林が無くなっていて、開発され始めているように見えます。この明智藪の木柱の東側に見える低い丘が城跡です。登っていないため横堀を確認していません。
光秀関連としては、ここから約2km北側(道沿いにあります)に光秀の胴塚がありますが、説明板にはこの周辺に埋められたと書かれてますので、打たれた場所も胴塚も確定した場所ではないですね。 首塚については東山区、亀岡市、宮津市にあります。首と胴体は秀吉軍に渡され粟田口で磔にされ晒されたと言われてますので 胴塚、首塚共にどうなんでしょうか?
首塚は晒されてから家臣かが亀岡市の谷性寺まで持ってきて供養したというなのか? 胴塚はあくまでこの辺にいったん埋められたという事ですかね?さらに、宮津市にも光秀の首塚については、娘の玉(ガラシャ)に首が届けられて埋葬されたような話があるようです。説明板には「光秀の首塚」と書かれながら供養塔となってます。
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小栗栖八幡宮
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鎌倉末期に地頭として入った飯田源五郎家秀が築城したとされます。家秀の孫の永盛がこの地に在住したとされるようです。以後、飯田氏の居館(居城)であったとされます。飯田氏は代々、小栗栖八幡宮の神主でもあったとされます。天正十年(1582年)、山崎の戦で秀吉に敗れた光秀は坂本城を目指して落ち延びましたがこの地で討たれました。通説では土民の長兵衛という事になってますが飯田氏一党が光秀を討ったという説もあるようです。
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