丹後 吉原山城



ファイルNo3329


                堀切            

@ よしはらやまじょう 
  別名 権現山城 峰山城 一色城 

A住所:京丹後市峰山町吉原
B目標地点:金峰神社
C形式:山城  D比高:120m 
E現況:山林・公園・神社

F遺構等:郭・堀切
G時代/人物:南北朝期/一色氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分

J撮影・訪問時期:2017年10月

  

道案内 ←城跡   ←峰山陣屋

舞鶴若狭自動車道の綾部ジャンクションから綾部宮津道路に入り、さらに宮津天橋立インタから宮津与謝道路に入り与謝天橋立インターで下り、左折し国道176号線に入ります。約3.2km先の石川の信号で斜め右へ国道312号線に入ります。約20km先、峰山町の長岡大橋で右折し国道312号線をそのまま進みます。(右折は国道412号線です。) 約800m先の長岡の信号で右折し府道17号線に入ります。約4.5km先(金峰神社、吉原のバス停を過ぎたところ)を左折します。約100m左手が第一区区民会館です。 ここから約1.2kmの車道を歩いて行くか、東尾根から進むかになり、頂部の金峰神社奥の宮が主郭です。

訪城備忘録

金峰神社奥の宮への道を進みます。登城道の途中に善明砦経由の道があります。奥の宮のあるところが主郭で、西側に二の郭、加えて、北の郭、東の郭があり、南下に善明砦があるという感じです。二の郭と主郭、東郭の東側にこの城最大の見どころの大きな堀切があります。段差は10mほどあるようです。ただ、この写真を撮り忘れたようで・・・。^^;

麓の城跡説明板
歴史

嘉慶二年(1388年)、一色詮範が築城したとされます。その後、一色氏の一族の吉原氏の居城となりました。 織田勢力の丹波・丹後平定の中、天正七年(1579年)、明智・細川勢に攻められ落城し、代って、細川藤孝(幽斎)の次男の興元が入り、天正十年(1582年)、城を大改修しました。関ヶ原の戦い後に細川氏が豊前中津に転封となり、廃城になりました。

細川氏に代り、京極高知が丹後十二万三千石で入りました。高知が元和八年(1622年)に亡くなり、子の高広に宮津藩七万八千石、高三に田辺藩三万五千石、養子の高通に峰山藩一万三千石(高通は元々三千石を領する旗本であったので遺領分は一万石)に分割されました。高通は吉原山城の麓に陣屋を構え、峰山京極氏は明治維新までこの地を統治しました。

主郭      北郭の堀切
北郭からの眺望
二の郭からの眺望
  
善明砦
吉原氏の家臣(城代)の近藤善明から名づけられたもの
南西郭群の横の窪地(大堅堀ではなく崩落跡のようです^^;)
堀切
二の郭
二の郭から
二の郭
二の郭
主郭よりの眺望
北郭
北郭と主郭の間の堀切

峰山陣屋 3328 
 
@ みねやまじんや A住所:京都府京丹後市峰山町吉原 (旧:中郡峰山町)
B目標地点:第一区区民会館  C形式:丘城  D比高:20m E現況:田畑
F遺構等:郭・碑・説明板  G時代/人物:江戸期/京極氏  H満足度:
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:5分
J撮影・訪問時期:2017年10月

遺構のようなものは無い感じで説明板と碑(峰山城と刻まれてます。)があるのみという感じです。現在の畑地が陣屋の敷地という事です。

歴史は吉原山城の欄を参照ください。
城址碑
標柱        郭?
左の道は金峰神社奥の宮(吉原山城主郭)への道・正面は陣屋登り口

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