道案内 ←城跡 ←峰山陣屋 |
舞鶴若狭自動車道の綾部ジャンクションから綾部宮津道路に入り、京丹後大宮インタを下り、左折し府道655号線に入ります。約2.5km先の酒戸古の信号で右折し国道312号線に入ります。約16km先、峰山町の長岡大橋で左折し国道312号線をそのまま進みます。(右折は国道482号線です。) 約800m先の長岡の信号で右折し府道17号線に入ります。約4.5km先(金峰神社、吉原のバス停を過ぎたところ)を左折します。約100m左手が第一区区民会館です。 ここから約1.2kmの車道を歩いて行くか、東尾根から進むかになり、頂部の金峰神社奥の宮が主郭です。
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訪城備忘録 |
金峰神社奥の宮への道を進みます。登城道の途中に善明砦経由の道があります。奥の宮のあるところが主郭で、西側に二の郭、加えて、北の郭、東の郭があり、南下に善明砦があるという感じです。二の郭と主郭、東郭の東側にこの城最大の見どころの大きな堀切があります。段差は10mほどあるようです。ただ、この写真を撮り忘れたようで・・・。^^;
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麓の城跡説明板
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嘉慶二年(1388年)、一色詮範が築城したとされます。その後、一色氏の一族の吉原氏の居城となりました。 織田勢力の丹波・丹後平定の中、天正七年(1579年)、明智・細川勢に攻められ落城し、代って、細川藤孝(幽斎)の次男の興元が入り、天正十年(1582年)、城を大改修しました。関ヶ原の戦い後に細川氏が豊前中津に転封となり、廃城になりました。
細川氏に代り、京極高知が丹後十二万三千石で入りました。高知が元和八年(1622年)に亡くなり、子の高広に宮津藩七万八千石、高三に田辺藩三万五千石、養子の高通に峰山藩一万三千石(高通は元々三千石を領する旗本であったので遺領分は一万石)に分割されました。高通は吉原山城の麓に陣屋を構え、峰山京極氏は明治維新までこの地を統治しました。
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