道案内 ←駐車場 |
舞鶴若狭自動車道の綾部ジャンクションから綾部宮津道路に入り、さらに宮津天橋立インタから宮津与謝道路に入り与謝天橋立インターで下り、国道176号線へ右折します。200m先の石田橋の信号で左折し府道2号線に入ります。400m先石田の信号を右折します。約1.3km先で斜め左に入ります。約1.2km先、左手が小学校で、右手が城山公園駐車場です。
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訪城備忘録 |
城域は大きく北の郭群、南の郭群、出丸に区分されるようですが、北の郭群は小学校となり遺構は消滅しています。南の郭群の縄張りは残されており、西の斜面の堀切や一部土塁が残り、東側の二の郭の郭群が残ります。主郭から南斜面に大きく竪堀状に落ちていますが、後世の参道跡のようです。
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城址碑
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鎌倉末期、山田氏が当地に来住し稲富氏を名乗り築城したとされます。二代直時の時に丹後守護一色氏に従いました。戦国時代に入り、一色義道は織田信長に同調して信長の進攻に従いましたが、織田信長が足利義昭を追放したが、義昭派であったため、天正六年(1578年)に細川藤孝が建部山城を攻め、義道が自刀すると嫡男の義定は弓木城に拠点とし、藤孝と和睦するも、天正十年(1582年)に藤孝は宮津城で義定を謀殺しました。義定の叔父の義清は弓木城に入りましたが、細川氏の攻撃を受け討死し一色氏が滅亡しました。稲富直家は義定を守り弓木城に在城しましたが、一色氏滅亡には同調せず浪人し、後に秀吉、家康に仕えました。
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