丹波 | 位田城 |
ファイルNo3010 |
@ いでんじょう |
道案内 | |||
舞鶴若狭自動車道の綾部インタを下り、府道77号線を右折し南下します。約1.6km先、由良川にかかる白根橋手前の信号で右折し府道74号線に入ります。1.2km先左手の山が位田城です。位田橋の手前に城跡への案内板がありますが、集落内は狭いため、県道沿いの広いところに駐車して行った方がいいでしょう。 |
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訪城備忘録 | |||
この城は高城、北郭群、低城、古城(宮越城)の4区域に分かれるようですが、9月末訪城で藪がきつくて遺構は見にくい状態です。たぶん、冬場でもあまりかわらないかもしれません。 東登り口から登ります。案内標識がありますので登り口は間違えないでしょう。登って行くと堀切に土橋のような地形を越え、竪堀という標識のある箇所を越えます。どれも藪がきつくて明瞭とは言えません。中腹に陣屋と呼ばれる平坦地があります。 ここからさらに登ります。高城の主要部の手前で急坂になります。周囲は高い草木で遺構とかは見れませんが、斜面には竪堀があり、主要部下には堀切がありますがまったくわからんです。主要部は草刈りもされており眺望もききます。主要部は三段ほどの段郭で構成され主郭はさらに一段高くなっています。 ここから低城の主郭も望めます。高城から低城に向かいます。最初に相当の急坂を下ります。尾根上に郭があり斜面には畝状竪堀もあるんですが、藪で全く見えません。唯一尾根道が横切る堀切が確認できます。いったん下りた尾根道を再び登ると低城主郭です。この登りの両斜面にも畝状竪堀があるはずですが藪で見えません。低城主郭は二段になっていますが藪藪です。ここより南の尾根を下りていくと浄泉寺に至りました。 残念ながら藪だらけで欲求不満な訪城でした。北郭群には行けてません。 |
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築城時期は定かではないですが、鎌倉末期から南北朝期に位田晴長が築城したと伝わります。この城は古城の方とされます。延徳元年(1489年)に守護細川政元の守護代上原豊前守元秀、子の紀伊守賢家の圧政に対し、位田晴定、荻野氏、大槻氏、須知氏などが抗戦し位田城に立て籠りました。これが、位田の乱です。上原氏は十三か国の軍勢で攻め込みましたが、籠城勢は一年持ちこたえたようで、延徳二年に一揆勢が城を放火し自落されましたが、翌年の延徳三年(1491年)に再起し、明応元年(1492年)まで続いたものです。その後の位田城の城史は定かではないようですが、永禄四年(1561年)に荻野肥前守が拠り、元亀三年(1572年)に明智光秀に攻められ落城したと伝わります。 |
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