丹波/ | 法貴山城 |
ファイルNo1851 |
二重の横堀が巡る山城
@ ほうきやまじょう |
道案内 ←城跡 ←登り口 | |||
京都縦貫道の亀岡インタを下り、国道423号線を池田方面に進みます。約5km先の法貴口の信号で、ここから峠を登ります。約2.5kmほどで登りきると小さな橋を越えると右手に「明智の戻り岩」の案内標識があります。ここに2台程度の駐車スペースがあり、この標識の左手から登ります。(2021年10月現在、法貴山城の麓の国道の工事は終わってました。) |
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訪城備忘録 | |||
戻り岩の案内標識では、右手に下りていくと明智の戻り岩があります。この標柱の後ろに「ハイカーの皆様へ」という案内板があります。ある本ではこの背後を登って支尾根をどんどん登って行くと城跡の東端に着くように記述してありましたが、倒木やシダでまっすぐ登るのは無理ではないかと思います。標柱の30m左手、国道の路肩が無くなる地点から斜面を左手に登ります。やや左手へ山中に入り登ります(シダが群生しています)ます。いったん左手に登り右手のシダが無いエリアに登りました。シダのなくなったところからわりと緩やかな斜面(谷形状)を斜め左方向に登り左の支尾根下まで登ります。ここから右手(東方向)の斜面を右手の支尾根先端まで登ります。ここに長い堅堀状の窪地があり虎口形状の箇所に至ります。ここは長い堅堀状は城道にも見え、支尾根上で屈折し、支尾根には小郭状の削平地があり、番所のようにも見えます。ここよりやや北西の斜面を登ります。この斜面も急ですが一応支尾根状です。この尾根をひたすら登って行き、山頂を目指します。<虎口状の所から北西に向かい登り、10mほどで右手方向に登り東の支尾根から少し下りると法貴山東城です。この東の支尾根を西方向に登って行けば舌状の平坦地に至ります。> 城域手前(主要部東南端下)で大きな舌状の平坦地に至ります。削平は甘いため郭ではないようです。ここから北側尾根まで登り、回り込むように北側下を進むと主要部東端の横堀に至ります。 (危険もあるので下段に地図を付けます) 主尾根に登ったら左手方向に進むと、主要部東端の横堀先端に致します。郭を越えると、その先に主郭の三方を巡る横堀です。この城は卵形状の主郭に、主郭中央に仕切土塁があり、主郭東側は西側半分に比べ一段高く、主郭西半分周囲には土塁が巡ります。主郭北側は断崖で、その他の三方には横堀が巡ります。この横堀は南側で分岐し二重横堀になってます。外側の横堀からは堅堀が数条落ちています。南側の主郭下横堀には虎口があり、これら横堀は堀底道として使われていた感じがします。西側の横堀の先に郭があり、その先に堀切があります。堀切は南斜面に竪堀として落ちています。主郭を見ると2008年から2021年の間に伐採整備をされたのかな?という痕跡がありますが、横堀は台風の影響の倒木が多く、すっきりと遺構は見られませんが、間違いなく特異な遺構です。 前回の帰りは、わりと斜面がゆるいこの竪堀から下りてみましたが、これが間違いでした。沢にどんどん下りて行き、とうとう前面が藪になってしまいました。山中を斜面沿いに越えて行き、なんとか元の登った斜面側に抜けられましたが、このルートはお勧めできないです。(2008年) 2021年は来た道を戻りました。 この城、思ったより主郭の大きな城で、めずらしい主郭の仕切土塁や明瞭な横堀、二重横堀などが見られますので、なかなかの城跡です。 |
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天文年間末期頃(〜1554年)に酒井孫左衛門が居城したとされます。天正年間(1573年〜)には酒井氏は明智氏に従い、天正十年(1582年)の山崎の戦いで討死したとされます。酒井氏の居館は法貴地区の慈雲寺の西側にありました。 「明智の戻り岩」は笑路城を攻めた光秀がこの地で笑路城の長沢氏と会談し降伏を受け入れたため、ここから兵を返したためこう呼ばれたとされますが、あるいは、進軍してきた光秀軍が巨石で前に進めずいったん退いたためとか、光秀がここで急遽引き返し本能寺に向かったとかの説もあるようです。 |
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