山城 / | 稲八妻城 |
ファイルNo1284 |
山城国一揆最後の戦いの場
@ いなやつまじょう |
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【道案内】 ←北稲八間城山 ←南稲八妻政ケ谷城跡登り口 国道24号線の開橋の信号で西へ入り府道71号線を進みます。すぐ開橋で木津川を渡ります。1.2Km先で近鉄京都線、JR片町線を越え、300m先で府道は左折で、左折し府道22号線を進みます(府道71号線併用)。300m先の北稲八間の信号で右折し府道71号線に入り、北稲八間の集落に進みます。500m先が阿弥陀寺です。阿弥陀寺の北西、武内神社背後の山で手前から一の段山、二の段山、城山と続いているようです。城山には集落内の十字路を左折し府道71号線をあと200m行ったところで右折し山へ登って行くと突きあたりが浄水場です。南稲八妻政ケ谷の城推定地には浄水場に向かうところを右折しないでさらに直進します。約500m先で京奈和自動車道にぶつかります。ガードをくぐらないで手前で左折し、京奈和自動車道沿いを約1.4km先、京奈和自動車道を渡る橋がありますので右折し渡ります。渡った正面の斜面を登りやや左手が主郭と称されるところです。 【訪城備忘録】 稲八妻城のはっきりした所在は分かっていないようです。ひとつは集落の背後、浄水場がある箇所とその隣の丘で、丘の周辺「字城山」という地名です。それ以外に南稲八妻字焼山、それと、南稲八妻字政ケ谷一帯は候補になるそうです。特に、南稲八妻政ケ谷地区は、 政ケ谷、京奈和道路を挟んだ西側の字血池、字北谷、政ケ谷の南北の字尻谷、字蓮池までの広範囲に城郭遺構が残るようで、政ケ谷城、あるいは、南稲八妻城という別称で呼ばれる事もあるようです。 2018年その政ケ谷側に行ってみました。昭和50年代に地元の郷土歴史家が確認されたものですが、著名なN教授は城としては否定されてます。現地は城域とされる政ケ谷から北谷地区の主要部の真ん中を京奈和自動車道が分断している状況です。 京奈和自動車道にかかる橋を渡った正面の斜面を登ります。尾根まで登る手前でやや左手に登ると主郭と称されるところです。ここを中心に西尾根、東南尾根、北東尾根に郭が展開してるという感じです。主郭の西側、東南側には土塁のように見えますが尾根の切岸でした。この二つを繋ぐ主郭の南から東端沿いに低い土塁状があります。北東端の高まりは土塁でその先は3mほどの切岸になっていて下の郭があります。主郭は西の尾根と南東の尾根より低くなっていて掘り込んであるように見えます。この二つの尾根の主郭側根元が溝のように掘り込んであるように見えます。どうも排水用の溝に見え、ここって昔は畑?と思ったりします。南東側尾根を進むと先には大きく谷になっていて少し下りると尾根の北側下に箱堀のような斜面と土塁に囲まれた箇所がありました。さらに下は切通なのか堀切なのか深いです。その先にまた高まりから尾根上に続くようですが今回は行きませんでした。主郭に戻り北側尾根を行きます。主郭と下の郭の切岸は鋭いです。その先は一段段郭状があり、さらに大きく落ち込んでいて下は今は使われていない古道の跡があります。切通状の箇所が二カ所あり、往時は堀切か堀が巡っていたようにも見えます。北尾根は切通しから高まりがあり、その先は先は京奈和道路で大きく消滅しています。京奈和道路の反対側政ケ谷側の高まりには登りませんでした。ここ城かって言われるとそうにも見えますが、私の能力では判断しかねます。 詳しくは精華町の資料へ⇒リンク 【歴史】 史料には文明十七年(1485年)に稲八妻氏の名前が上がっているようです。稲八妻氏は稲八間を拠点とする国人とされます。明応二年(1493年)に山城国一揆の最後の戦いとして山城国人が稲八妻城に立て籠もり、守護伊勢氏配下の古市氏との合戦の上落城したとされます。 |
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南稲八妻・政ケ谷〜北谷の城跡遺構? |
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