山城/ 物集女城



ファイルNo1218

思いがけない感じで城跡の堀と土塁は明瞭に残る

        堀と土塁   

@ もずめじょう 
  別名 

A住所:向日市物集女町中条 
B目標地点: 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:畑・宅地 

F遺構等:郭・土塁・水堀・説明板 
G時代/人物:室町期/物集女氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  5分

J撮影・訪問時期:2001年08月・2014年2月

  

【道案内】  

名神高速京都南インタを下り、国道1号線を京都中心部へ進みます。1.4Km先の久世橋通りの信号で左折し県道201線に入ります。2Km先で国道171号線と合流し久世橋を渡り右折して再び県道201号線に入り物集女方面に進みます。<東海道新幹線・東海道線・阪急線を越え>3Km先の物集女街道と交差したところの御所海道の信号を左折し、100mほど行った右手のアパートの奥に説明板があります。そのフェンス向こうに堀が見えます。また、御所海道を直進して西山来迎寺の手前の路地に左折し40m先右折、すぐに左折し60m先の二股を左手に入り80m程行った民家の裏手、畑の奥の竹薮に土塁が残ります。



【訪城備忘録】

城跡は主郭と思われる箇所の水堀がL字に残り、土塁の一部をが残ります。主郭は畑となっているものの、その範囲が確認できます。

2014年再訪
10年ぶりに再訪しましたらさらに宅地化が進んだようですが、主郭の畑とそれを囲む堀と土塁の一部はそのまま残っていました。
  
【歴史】

築城年代は定かでは無いようですが、国人物集女氏の居城でした。史料には長享元年(1487年)に物集女四郎右衛門光重の名があるようです。織田信長が山城に進出し、細川藤孝が勝龍寺城に入り支配しますが、物集女氏当主の忠重(入道早久)は藤孝に従わなかったため、勝龍寺城で誘殺されたため、物集女氏は衰退しました。 <現地案内板より>


畑側から土塁・堀のある竹薮を見る

  
土塁
  
  
  
説明板より    主郭側     説明板
主郭内
堀側の説明板       堀と土塁
鶏冠井城 3820   寺戸城 3821 

 鶏冠井城(かいでじょう) 向日市鶏冠井町御屋敷(鶏冠井公民館・北真経寺) 公民館前に説明標識があるのみです。 【道案内】国道171号線の東土川の信号を西に入り府道202号線を進みます。約800m先(JRとのアンダーパスをくぐった先)のT字を左折し府道をさらに進みます。約200m先の信号を左折します。約600m先の十字路を左折、約50m先のJRの高架をくぐりさらに約50m先を右折します。約50m先を左折した約50m先右手が鶏冠井公民館です。【歴史】築城時期・築城者は定かでは無いようです。西岡衆(乙訓岡惣国一揆)である物集女氏、神足氏、中小路氏、革嶋氏ら36家のひとつの豪族です。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西岡衆の大半が東軍に付くも、鶏冠井氏は西軍に付きました。文明九年(1477年)に応仁の乱が終結後の西岡衆に鶏冠井雅盛の名があり、中心的立場であったようです。大永七年(1527年)の細川高国、細川晴元の抗争では鶏冠井氏は晴元方であったようです。その後は三好氏方であったようです。永禄十一年(1568年)、上洛した織田信長に付いた革嶋一宣に攻められ落城し没落したようです。

寺戸城 向日市寺戸町古城(西部防災センター・例慶公園) 路地に標識だけと思っていたんですが府道沿いに新しい碑も立っているようです。 【道案内】】国道171号線の東土川の信号を西に入り府道202号線を進みます。約800m先(JRとのアンダーパスをくぐった先)のT字を左折し府道をさらに進みます。約600m先の競輪場前の信号を右折し府道67号線に入ります。約500m先の中垣内の信号を左折し府道207号線に入ります。約100m先左手角あたりに碑があります。【歴史】築城時期は不明ですが南北朝期に地頭になった竹田氏が築城したようです。応仁二年(1468年)、城主は野田氏であったようで、ここに東軍が陣を張り、鶏冠井城を攻撃したようです。

鶏冠井城標識     寺戸城標識

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