富山の城012/

                                                                               

放生津城 0063
城址碑
A射水市中新湊   旧:新湊市 B放生津小

富山市方面より国道8号線で来ると、鏡宮の陸橋手前で側道に入り、信号を右折し、国道472号線で新湊中心部に向かいます。国道415号線と合流後、さらに中心部に向かいます。万葉線中新湊駅そばの踏切を渡ってすぐ右折すると放生津小学校です。ここが城跡でグラントの校舎とは反対側の端に城址碑があるのみです。ここ近くに富山新港はありますが、ここは私の子供の頃は越ノ潟とよばれる湖でした

C平城
F遺構等:石碑・説明板  
G鎌倉期/名越氏  
H満足度;凸
正応元年(1288年) 越中守護名越時有が築城したものです。元弘三年(1333年)鎌倉幕府滅亡の時に落城しました。名越時有、弟の有公と一族の貞持らは、妻子を海に入水させた後、城に火をかけ自害しました。 落城後、妻たちの亡霊が波間に浮かぶようなことがあったらしいです。 城は、畠山氏・神保氏(長誠・慶宗・長職)を経て、前田氏の家臣山崎長鏡が城主・城代となり、元和六年(1620年)に廃城となりました。その後、加賀藩米蔵屋敷となりました。 <現地案内板 ・資料 より>

J訪城:2001/06
太刀城 0751
城址碑
A高岡市東二塚  
B浄誓寺
高岡駅南口より県道58号線を南下約3Km進み二塚の信号で県道57号線新道に右折し400m先の左手田園の中に碑があります。(あるいは、高岡市内中心部より国道153号線で南下(砺波市方面に向かい)県道57号線手前の県道57号線新道左折し、城端線陸橋を越えて200m先の右手です。)
浄誓寺の北東100mの県道近くに城址碑はありますが、碑が3つあり城址碑以外は「三ツ首」・「横掘」という碑です。どういう意味なのか??
           
 また、浄誓寺の南に恒性皇子の墓があります。≪ 恒性皇子は後醍醐天皇の皇子で元弘の変(1331年)に鎌倉幕府討伐を企てられましたが失敗し後醍醐天皇は隠岐に配流され、皇子は元弘二年(1332年)に捕らえられ名越氏によって幽閉され、後醍醐天皇が元弘三年(1333年)2月に隠岐を脱出して鎌倉幕府滅亡が近くなりましたが、皇子は同年6月に名越氏の手によって殺害されました。 <現地案内板より> ≫
C丘城
F遺構等:石碑  
G鎌倉期/名越氏  
H満足度;凸
鎌倉期に越中守護の名越時有が放生津城の支城として築いたと考えられます。太刀城は別名二塚城または舘の城と言います。鎌倉幕府滅亡時に名越氏も滅びましたが、太刀城が同時期に廃城になったかは不明です。

J訪城:2005/03
金戸館 0754
専徳寺の裏手
A南砺市金戸 /旧:東砺波郡城端町 B専徳寺

北陸自動車道福光インタを下り、国道304号線を左折し旧城端方面に向かいます。JR城端駅手前200mの信号で右折し県道292号線に入り、700m先左に専徳寺があります。専徳寺の裏手はなんとなく居館の趣があるのですが、資料では寺の西側に居館があり今は遺構がないとなっています。

C平城
F遺構等:途中断念  
G**期/森松氏  
H満足度;途中断念

J訪城:2002/05