越中/ 大道城



ファイルNo1654

山深い山中に残る明瞭な戦国の城

          搦め手側主郭堀と土橋と虎口

@ おおどうじょう 
  別名 若狭城

A住所:富山市八尾町足谷〜山田谷
    旧:婦負郡八尾町足谷・婦負郡山田村谷 

B目標地点:谷バス停 
C形式:山城  D比高:350m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・土塁・堀・竪堀・内桝形虎口 
G時代/人物:戦国期/小嶋氏・神保氏
H満足度:
凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  谷集落から60分、林道第一分岐から2km
  林道第二分岐から1km、林道城跡下から8分

J撮影・訪問時期:
2007年01月/2014年05月

  

道案内 

富山市中心部より国道359号線で砺波方面に向かい神通川の橋より約9Km先、旧婦中町吉住の信号を左折し、すぐの信号<外輪野>を右折し、県道59号線に入り、山田川沿いに山田方面に進みます。音川小学校より約1.5Km先の高山集落、(高山城のところ)、さらに約4.5Km先の山田総合行政センター(旧山田村役場)手前の分岐で県道59号線は右手へと登ります。直進は県道224号線で、近くに山田温泉があります。県道59号線は牛岳スキー場に向かうことになります。

山田川沿いを上流に向かいます。分岐点から約1Kmほどで直進が県道59号線で右折が県道334号線です。さらに県道59号線を進みます。約1.4Km先が若土ダム、さらに約500m先で山田川を渡り、500m先が谷集落です。谷のバス停前に左折(あるいは約300m先で左折)し急坂を登ります。

集落を過ぎて林道を進み、約1kmほど先、大道城まで2Kmという標識、説明板の所まで行き、そこよりさらにダート道の林道を進みます。車高の高い車なら城跡の下まで林道で行けますが、乗用車ですと腹をこすることになると思います。最初の分岐から約1km先に二つ目の分岐があり、私はここから歩きました。さらに約500m先また(三つ目)分岐がありますが、直進です。最後は右手の崖上に城跡、左手は立山連峰まで見える眺望が広がり、城跡の南側に廻り込むと説明板があり、ここから城跡に入ります。リンクのマピオンには林道の最後の部分が描かれていません。写真での道案内は下段につけておきました。
 
2022年11月、地元の城仲間の情報では二つ目の分岐点付近から林道が薮化していて背丈ほどの草が生い茂っているようで四輪駆動車でも進むのには困難な状態との事です。林道は薮化して難儀しますが城跡はそのままで見学するのには薮化はしていないそうです。もし、行かれる方がおいででしたら事前に情報を収集して行ってください。

訪城備忘録

城跡は平成の大合併で富山市になってしまいましたが、旧の八尾町と山田村の境にあります。住所的には八尾町になるようですが、八尾町からの道は相当に荒れているようです。旧の山田村の牛岳スキー場近くの谷の集落からの登りがベターのようです。この山田村、山田温泉でも有名です。2007年1月に行った際は集落の一番高いところにある民家から先の林道は除雪もされておらず、積雪が30センチほど残ったままとなっていました。200mほど進んで見ましたが、普通でも城跡まで1時間はかかるのに、この積雪ではどうにもならず断念しました。

2014年5月、再訪でやっと訪城できました。この日は快晴で林道からの立山連峰が綺麗に見えて気持がよかったですが、この地帯は熊のでるところでもあり、油断はできません。この城は、富山県の中でも高所に築かれた城です。説明板のところから搦め手から主郭に向かいます。すぐに空堀があり、さらにその上の城道空堀を右手に進みます。主郭へという標識の坂虎口を登ると井戸跡と標識に書かれた大きな穴があります。導線真ん中にある大きな穴で、単純に井戸にしては大きく、また位置的にも変な場所にあります。

その先は主郭と副郭を隔てる空堀が横たわり、土橋が架かります。これも明瞭に形を残しています。主郭虎口は内枡形ですが、土塁が低く、やや不明瞭です。主郭は40m四方で南北に土塁が残ります。北側には搦め手同様な空堀と土橋があり、これも明瞭です。北側の一段下がったところの郭は北側に土塁と空堀があり、ここにも外側とは土橋で結ばれています。主郭東側のさらに下段に帯郭があり主郭側とは長い空堀がありました。さらに大手側にも大きな井戸跡の穴がありますが、これも位置的には変で、なにか意図的です。堀には意図的な屈曲があり、この城跡は小さいながら技巧的で、また、明瞭に遺構が残る見応えのある城です。しかし、こんな山奥にこれほどのものが必要だったんでしょうかね?

城域入口説明板
歴史

築城年代・築城者は定かではないようですが、神保氏の家臣が在城し上杉謙信の侵攻(永禄三年(1560年)〜天正元年(1573年)頃か?)に備えたと伝わります。<謙信の急死は天正六年(1578年)> 天正六年に織田信長方に付いた神保長住より小谷六右衛門が大道村を与えられているとの事です。説明板にはこの時を築城時期と書かれてありました。小谷氏は上杉氏と抗戦する神保氏を長年援助していたようです。天正九年(1581年)、神保氏の家臣、寺嶋牛助、小嶋甚助が立て篭もり、織田方の佐々成政に攻められ落城したようです。その後、佐々氏の支配下に置かれましたが、廃城時期ははっきりしないようですが、成政が豊臣秀吉に降伏する天正十三年(1585年)頃ではないかと考えます。

搦め手土橋          大手土橋
      城跡遠望(2007年)  山田中心地にある観光案内板(矢印が大道城)
地理院地図より
  
城域入口       最初の空堀
搦め手       空堀
城道的な空堀     主要部への虎口
搦め手の井戸跡      主郭内枡形虎口
搦め手主郭前堀
主郭
大手主郭前空堀
大手側井戸跡       長い空堀
   
現地説明板より
搦め手空堀と土橋
大手側土橋と空堀
大手門
大手からの眺望
林道から見る立山連峰
剣岳遠望
立山連峰遠望

道案内
主林道からの分岐点@        途中のカーブ(右手へ)
  途中のカーブ(左手へ)       分岐点A1km地点<左側を登る>
分岐点B 直進       右手が城跡
林道からの眺望      坂上から城域入口の説明板

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