富山の城006/

                                                                               

大峪城(おおがけ)  0084
旧:五福小学校

当時の説明板

A富山市五福  
B旧:五福小学校 C平城

富山市中心部より旧国道8号線(=現県道44号線)を呉羽山方面に向かいます。神通川を富山大橋で越え、路面電車の大学前終点を過ぎて富山大学前を過ぎたところの五福八区の信号を左折し県道59号線に入り400m先左手が旧五福小学校です。学校進入路入り口に説明板が立っています。敷地は周囲に比べすこし高台になっています。東側に廻ると切岸風の斜面になりますが遺構ではないですよね・・・^^;

五福小学校は北側に移転して 2020年現在 現地は更地になっているとの事です。

F遺構等:説明板  
G戦国期/−−氏  
H満足度;凸

天正十三年(1585年)豊臣秀吉が佐々成政を攻めた際、白鳥城を本陣とし安田城と大峪城を出城として築城したとするものです。大峪城には秀吉方である前田利家の家臣片山伊賀守延高が守将をしたため伊賀城とも呼ばれます。 <現地案内板より>

J訪城:2001/06
小出城  0874
小出神社と説明板
小出城城域周辺

A富山市水橋小出  B小出神社 C平城

富山城から国道41号線で東へ進みます。4Km先荒川東部の信号で左折し県道56号線を進みます。3Km先の新屋の信号で国道8号線(地元では8号線バイハスと呼ばれる新8号線)へ右折します。常願寺川を雄峰大橋で渡り約5Km先の北馬場の信号で左折し国道415号線(県道15号線の共用)に入り、県道15号線を1.2Km進んだ左手奥に小出神社があります。小出神社の周りは寺・宅地・田畑で遺構はありません。2004年までの発掘調査では城域は南北150m規模で堀が巡りさらに城の外側は沼地が広がっていたようです。

F遺構等:説明板  G戦国期/唐人氏  
H満足度;凸

天文十四年(1545年)に越後の長尾為景い敗れた式部大輔の唐人兵庫はこの地に居を構えました。その後、永禄九年(1566年)、揖美庄(弓庄)助五郎が一時期居城しましたが、上杉謙信に攻略され、以後は上杉氏と織田氏との攻防の舞台となりました。天正九年(1581年)に佐々成政・神保長住が京都に赴いている時に、上杉景勝の家臣の松倉城主河田長親が佐々成政配下の久世但馬が守る小出城を攻撃しましたが、城の周囲の沼地に阻まれ攻めあぐんだという記録があります。<現地案内板より >  城は天正十三年(1586年)の越中大地震の痕跡や江戸期の出土品が発掘調査で確認されたようで江戸期も何らかの施設(水運関係?)があったとされます。

J訪城:2005/05
日方江館  0054

A富山市日方江  C平城

富山城から国道41号線で東へ進みます。4Km先荒川東部の信号で左折し県道56号線を進みます。3Km先で国道8号線(地元では8号線バイハスと呼ばれた新8号線)を横断し、1.7Km先の富山東高校前のT字で左折し国道415号線に入り1.2Km先の中田の信号で右折し1.5Km先の海岸通りの信号で右折し県道1号線に入ります。600m先の田畑新町の信号を越えた県道左道沿いです。現地には土壇とその上にあるお堂がありますが、砦・館の趣は感じませんでした.

F遺構等:説明板  G戦国期/上杉氏  
H満足度;凸

天正六年(1578年)に大村城攻撃のため上杉方が構築した砦です。

J訪城:2001/06